『東京喰種』深読み考 ① 〜カネキとニムラ〜
注:本記事は東京喰種を読んだことがある方向けです(前提解説なし、ネタバレあり)。未読の方には何よりもまず全巻読まれることを全力でオススメいたします。
本noteは、東京喰種トーキョーグールの各シーンを考察することで、キャラクターの内面や作品の持つメッセージについて解説することを目的としています。
(言い換えれば、美麗な絵や個性的かつ魅力的なキャラクターへの愛をイラストで表現できるような画力は自分にはないので、石田スイ先生が心血を注がれて構成されたであろう東京喰種のストーリーに焦点を当てて、あれこれ語りたいということです。)
さて、東京喰種・最終巻のあとがきを読んで、作者・石田スイ先生の告白を見て俺は衝撃を受けました。
無印7巻から
漫画に対しての姿勢が
変わってきました。
自分を追い込もうとして、
無理な仕事のやりかたをしていました。
いろいろなものを切り捨てて、
仕事に時間を注ぎました。
拷問を受けるカネキに
近づこうとしていたのだと思います。
身体に
不具合が出るようになりました。
始めは怖いなと思いましたが、
数か月おきに
いろんな症状が出るので、
もうこういう身体なんだ、と
あきらめるようになっていました。
一番印象深かったのは、
味覚がなくなったことです。
なにを食べても同じ味で、
症状こそ違えど、
喰種になったような気持ちでした。
石田先生はここまで心身を、いや命を削って東京喰種を描いていたのか…と、打ちのめされました。
このあとがきを読んで、東京喰種という珠玉の物語をもっと深く味わい、もっと深く知らなければいけない、と思うようになりました。
そんなわけで早速今回は、東京喰種のクライマックスの1つ、『東京喰種:re』最終16巻で、カネキがニムラに向かって「この世界は間違っていない ただそこにあるだけだ」というシーンについて考えてみたいと思います。
【東京喰種トーキョーグール:re 16巻 【喪う】より】
まず、改めて東京喰種無印3巻のエピソードから振り返ってみましょう。
「この世界は間違っている。歪めているのは喰種。」
「この世界は間違っていない ただそこにあるだけだ」
これは、最終巻で、カネキとニムラの戦いにカネキ勝利で決着がついた後、カネキがニムラに向けて語る言葉ですが、東京喰種・無印3巻で亜門からカネキに提示された大いなる問いへの応答となっています。
【東京喰種トーキョーグール(無印)3巻 【開眼】より】
罪のない人々が喰種によって惨殺される。そこに何らの正当な理由も、捜査官である亜門には見出すことができない。
確かに、理不尽な不幸というのは、病気や事故など含めてこの世界に無数にあります。
しかし、ここではヒトを食糧とする悪鬼・喰種が加害者としてはっきりと存在してしまっている。人類の怒りが喰種に向けられるのは避けられないことでしょう。
さて、この亜門の言葉に対して、カネキは何を考えたのか。
【東京喰種トーキョーグール(無印)3巻 【開眼】より】
カネキは、
「この人の言う通りだ・・・”喰種”はこの世界を歪めている」
「僕だってそう思う部分はたくさんある・・・彼が言うことは・・・正しい・・」
と、「この世界は間違っていて、それは喰種のせい」という亜門の言うことを否定できませんでした。
でも一方で、喰種と人間の"どちらでもある"、境界線上の存在となった自分にしかできない何かがあると、カネキは直感しました。
「誰かの手で大切な人の命を奪われたのはヒナミちゃんも同じじゃないか・・・」
「”喰種”にだって感情はあるんだ・・・その部分はヒトと何ら変わりない」
「”僕”だけだ」
「ーそれに気付けるのも それを伝えられるのも・・・」
「”喰種”の僕だけだ 人間の僕だけだ」
ただ、この段階ではまだ自分に何ができるのか、その答えは持ち合わせていませんでした。東京喰種は、カネキがこの答えを探すための旅路の物語とも言えるかもしれません。
「世界が間違っているとすれば、歪めているのは、この世界に存在するものすべてだ」
さて、その後ヤモリによる筆舌に尽くせぬ拷問の果てに、カネキは「喰種」として覚醒します。そこで言う「喰種」とは、ヤモリやリゼに象徴される、生きるために他者を喰らう・奪う存在としての「喰種」でした。
そして、「喰種」となったカネキは、亜門の言葉を思い出して、こう言います。
「・・・僕は思う
世界が間違っているとすれば
歪めているのは————
この世界に存在するものすべてだ」
【東京喰種トーキョーグール(無印)6巻 【新光】より】
このセリフはとても格調高く、満月の美しい背景描写とも相まって、しんとした情景に浸って何となく分かった気になってしまいそうですが(自戒を込めて)、少しよく考えてみたいと思います。
世界が間違っている(①)とすれば、
歪めているのはこの世界に存在するものすべてだ(②)
まず、「世界が間違っている(①)」というところの意味ですが、ここでは、大切な人を理不尽な不幸から守れないこと、という亜門の言う意味と同じと考えてよさそうです。なぜなら、カネキは、自分が救うべき人たち(ヤモリに囚われた喰種やカネキの母)を救うことができなかったという現実に苦悩してきていますし、これ以降も、仲間を守ることに大事な価値を置いているからです。
さて、カネキの考えが特徴的だなと思うのは、「歪めているのはこの世界に存在するものすべてだ(②)」、という部分です。
ヤモリによる拷問後のカネキの世界観では、唯一絶対な論理は、弱肉強食です。強くなければ大切な人を守れないと強迫観念に囚われてしまったかのように、これ以後のカネキは、できる限り他者に依存せず、ひたすら自らを強くすることに執念を燃やしていきます。
・・・ところで、漫画界において弱肉強食と言えば、やはり『るろうに剣心』の志々雄真実を外すことはできません(よね?)。
「所詮 この世は弱肉強食
強ければ生き 弱ければ死ぬ」
この名台詞を残した志々雄真実の考え方は、最強・最凶のヒールにふさわしく、強者が正義であり、悪いのは弱者、というものでした。
他方、一般に弱肉強食という言葉は、弱い立場にある人たちからは、強者には思いやりも人間性のかけらもないということで、強者側が悪、弱者側が善、という文脈で使われます。
さて、ではカネキはどう考えていたのでしょうか。
(弱肉強食の)世界が間違っている(①)とすれば、
歪めているのはこの世界に存在するものすべてだ(②)
世界に存在するものすべて、つまり、強者も弱者も、双方にこの間違った世界(結果)を作り出している責任があると考えているわけです。
強者は、他者を奪うと言う罪を犯し続けると言うことで、悪。
弱者は、強くなり強者と戦って強者に奪われる不幸を阻止しなければいけないのにそれができないということで、悪。
どちらも許すことができないカネキ。
そしてこの後カネキは、弱い自分に苦しみ、奪う自分にも苦しみ続けるという、救いのない道を一人歩んでゆくことになるのです。
「この世界は間違っていない ただそこにあるだけだ」
そして、長い長い戦いの果て、ついに最終巻においてカネキは、「この世界は間違っていない ただそこにあるだけだ」と宣言するに至るのです。
【東京喰種トーキョーグール:re 16巻 【喪う】より】
これは、弱肉強食と自己責任の論理に囚われていたカネキの考えとは全く違う色合いを持っています。
幸も不幸も、あらゆる出来事は巡りあわせにすぎない。
状況と、状況に対する自分自身の選択。その集積として世界があるだけ。
変えることのできない過去の選択を後悔しても仕方がなく、現在までの選択の帰結を見つめ、そこから未来に向けて新たな選択をしようと前を向く姿勢。
そういう清々しい世界認識だと思います。
では、カネキにこう言わせしめたものは何だったのでしょうか。
それは、自分が愛を与えることのできる誰かが存在すること、そして自分を愛してくれる誰かが存在するということを、この世界において実感し、信じることができるようになったことだと思います。
カネキのこの実感と信頼は、以下のセリフにそっと込められていると思います。
・・・でも新しい居場所が出来た
友人のような仲間たちも
師と呼べる人も
愛する人も
さて、ここで冒頭で紹介した問い、『喰種でもあり人間でもあるカネキにしかできないこととは何か』を思い出してみると、この「新しい居場所」というのがその答えになっているように思います。
「友人のような仲間」、「師」、「愛する人」。
東京喰種を読んだ人なら、そこにカネキがこれまで関わってきた、ヒトと喰種の双方の顔ぶれがいくつも思い浮かぶことでしょう。このような繋がりを作り出すのは、カネキが触媒になることでしか実現しなかったものでした。
幼少期に母親を亡くし愛に飢えて育ったであろうカネキが、トーカや仲間たちとの愛や友情を育んで自分の拠って立つところをついに見つけられたいうところも、ぐっときます。
とまぁここまでだけですと、カネキ一人の視点だけしかなくて、それはそれで十分に読み応えのあるストーリーなのですが、カネキの対になる存在のニムラが描かれることで、カネキのこの「世界は間違っていない」というメッセージがより一層輝いてくると思うのです。(次回に続く、予定)
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