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お別れ

 二十代の終わりに腕時計の竜頭が折れた。どうやら汗で腐食していたらしい。安価なファッションブランドの時計だったが、随分気に入って使っていたものである。
 その時分には川崎に住んでいて、もうじき大阪へ引っ越すことになっていたから、その前に直しておきたくて、近くの時計店へ持ち込んだ。
 直りますかと訊いたら、店主は何だか渋い顔をした。
「うーん、こういうのはねぇ……」
 時間がかかるし、そもそも部品が入って来るかどうかもわからないと云う。
 日数がかかるのは都合が悪いと伝えたら、使い勝手は悪くなるが竜頭をボンドで留めてはどうかと、苦肉の策を出して来た。
 それでは時刻が合わせられなくなるだろうと思ったが、何だか竜頭を使わずに時刻を合わせる方法があったようである。もう昔のことで、そのやり方は忘れてしまった。
 結局ボンドで留めたけれど、ケチが付いたようで使う気がしなくなった。そのまま、どこかへやってしまった。

 その後、別の時計を買った。青い文字盤のクロノグラフだった。これも特に高い物ではなかったけれど、随分お得に買えたのもあって、大いに気に入った。

 ある時、酒井さんとビリヤードをやって、帰ろうと思ったら、時計が見当たらない。プレイ中は邪魔だから外して、台の脇にあるテーブルに置いていたのである。
「時計がないようだ」
「盗られた?」
「どうだろう」
 それで、時計が失くなったと店長に訴えた。店長は同年代の優男だった。
「どんな時計ですか?」
 見ると店長の左腕に同じような時計が巻いてある。
「そんなやつ」と、指したら言葉を失った。
「……は?」
「そんなやつ」と、自分は再度言った。
「あ、本当だ。本当にそんなやつだよ」
 酒井さんも店長と親しいものだから、ニヤニヤしながら加勢した。
「ちょ、やめてくださいよ、これ、違いますよ」
「うん。似てるけど、ちょっと違う」
「ああよかった」
「本当かい? 百さん、よく見た方がいいぜ?」
 酒井さんはやっぱり意地悪く笑った。
 時計は結局出て来なかった。不用心すぎたと反省した。


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