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「わかる!」って本当?

「わかる!」

この言葉は、相手の話に対して共感を示す時に使われる。学校やカフェのような社交の場では、「わかるわかる」「あああわかるなあ」、「いやあめっちゃわかる!!!!!!!!!!!私も同じこと思った!!!!!」というさまざまなニュアンスの「わかる」が飛び交っている。私は周囲から聞こえてくるこんな共感の嵐にいつも飲み込まれたり、つまづいたりしている。ただそんな私も「わかる」の使い手なのが味噌なんです。(小声)

「わかる」という言葉は、とにかく共感が込められていると思う。「わかる!」というのは、自分や同じような経験や、身近な人が同じような気持ちになったことがあるという憶測で発せられるのかなあ。とにかく、「わかる!」と反応をすることは、相手の前で一旦刀を置いて、「あなたと私は同じ境遇ですのでこれからは同胞として肩を並べて歩こうじゃないか」という心境があるんやないやろうか。「わかる!」の先に生まれる友情ってたくさんあると思う。

例えば、私は大学一年生の時、寮の一人部屋で暮らしていた時のこと。私は幼少期から、とにかくお風呂嫌いなんよ。服を脱ぐところから、石鹸をつけて水で流しては石鹸をつけてまた流す。それどころか、体をタオルで拭いてから服を着るまで、いくつ工程があるんや!そんなものをよくみんな毎日入れと躾けられてきたもんやと感心する。そんな私がなんでも決定権がある生活を手に入れてからというものの、誰にも臭いと思われなかったら、別にお風呂入らなくてもいいよねと思い始めたらもう1ヶ月経っていた。(汚い)脱風呂新記録更新中のある時、「昨日お風呂入ってない!」ていう友達の嘆きに対して、「うっわ汚ねえ!その体でベッドに乗らんで!」って言われているのを見て、思わず「私1ヶ月お風呂に入っていないけど特に変わりはないよ」と言おうとしていた言葉を飲み込んだ。しかし、私にも同胞はいた。それは、NGO系の団体に入っている強靭な体力の持ち主だった。その子はなんか綺麗好きじゃなさそう(失礼)やと思ったから打ち明けてみたら、大共感大関心された。「わかる!お風呂って面倒なんよ!でも風呂嫌いって海外に行ったら強いよね。ボランティアしに行くと毎日シャワーを浴びられる保証はないからね。私は脱風呂最高記録2週間やなあ、、」と悔しがっていた。二人とも風呂が嫌いというあまり声を大にして言えないセンシティブな共感によって、私たちの距離はそこから急激に縮まった。人様に言いにくい風呂嫌いで共鳴した先の友情は硬いんよな🌟

このように共感、特に公にしにくいことへの共感は人と人を重ねる力がある。だから、悩み相談や愚痴を言っている時などに「わかる!」という言葉が乱用されるのではないかと思う。実際、私が友人に悩み相談をした時に、「わかる!」という言葉によって、今抱えていること、もがいていることは私だけじゃないんやと安心することができた。そしてその言葉は私を幾度も救ってくれた。

一方で、時折、他者から「わかる!」と言われることにつまづくことがある。相手は仲間になろうと、刀を置いた時に、私はむしろ刀を抜きたくなる時がある。それは、共感を欲していない時で、自分はこの経験からこんなことを学んだんよって話をしている時に起こりがち。

例えば、本当に私がいつも団体の後ろで副リーダーがサポートしてくれるような自分がどうしても人に合わせることができないという悩みに対して、すごく周囲に気を使って適宜動いている人が「わかる!」と言っていたら、あなたは違うでしょと反論したくなる。(しないけど)他にも、これは私の友達の経験やけど、「留学行って思ったのは物事にはいい面と悪い面があるってことやわ」というと「わかるで」というあっさりとした返事しか返ってこなかったらしい。それは、確かにその気づきがどこでも言われているような応用の効きすぎるものであるからこそ、「うんうんそやなわかるで」と言いたくなる。でも、そうゆうのって全く同じ体験をしたわけじゃないから、わかるはずはなくて、その深みは様々よなと思う。だから、同じ苦労を味わってないやつが簡単に私の世紀の大発見をとっくの昔から見つけているかのように言って水を刺すな!と思うらしい。必ずしもみんな全ての経験を言語化するわけじゃないから、会話を通してしか本当に似た経験をしたのかどうか正確に測ることはできない。というより、同じなわけがない。だからその気づきの有無で、どっちが上とか下とか測りたいのでなく、とりあえず独自の体験に他者の体験を重ねて欲しくない。そんなとき「わかる!」という共感はさも安全そうだが棘のある武器になる。

だから、もし自分がニュートンやったとして、「リンゴがな木から地面に向かって落ちたんよ!」って大発見したのを「いや、わかるで。りんごは木から落ちるよね。」ってすぐにその共感されたとしたら、私がニュートンやったら「いやいや、こういう式があって、落ちるって気づいたんよ、お前にそれと全く同じ気づきがあるか!」と言いたくなるんかなあ。と思う。

このように、共感は自分は他者と同じなんやと安心させてくれることもある一方で、自分は他者と同じであるはずがないという自尊心を踏み躙ってくることもある。自分と馬が合いそうな人と共通点を見つけた時には共感で即座に仲良くなろうとするよりも、共通点を拡大して噛み砕いていく中にお互いの違いを見つけていく方が相手のことも、見知らぬ自分も見つけることができるんじゃないか。もちろん、人と重なる点を探るのもすっごく救われたり快感を得られたりするし、他者との距離を縮めるには近道だけど、好奇心を持って会話を続けることで共感の先にある違いを見つけられたら、予期せぬ着地点に辿り着くかもしれない。脱共感、ちょっと試しにやってみようっと。

追伸、脱風呂期から二年。今、私はお風呂に毎日入っています。

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