1球目|娘に三輪車を買う・8 菊地家
今日は日曜日なので、6時に目覚ましが鳴った。
昨日はお出掛けのためにお弁当を作ったので早く起きなければならなかったが、大体の土日はこの時間までゆっくりと寝られる。
隣で寝ている彩菜は、腰をツイストさせ片手を上げている。今朝もまた妙な寝相だ。その無理な体勢を優しくほどき、そっと布団を掛け直す。それでもまだ熟睡している。
昨夜、彩菜は珍しく夜泣きをしなかった。心体ともによほど満足したのだろう。その寝顔にはうっすら笑みが浮かんでいる様にも見える。
襖を開け放つ。寝室にしている6畳間はダイニングの隣だ。今の時間はまだ夜明け前で暗いが、徐々に朝日が瞼に差し込めば彩菜も自然と起きてくるだろう。
私は立ち上がるとすぐに洗面所に向かい、洗顔フォームを手に取った。専業主婦となった今では、最低限のスキンケアが欠かせない。
在職中はそんなことにまるで頓着しなかったものだが、結婚してからというもの、ご近所さんと顔を合わせるのが常になった。笑顔のやり取りがその関係と地域での居心地を良好にする。
いわばそれが今の私の仕事。エンジニアから営業・広報に転職したのだ。
顔全体を撫でるように洗った後は、化粧水をたっぷりと馴染ませ、潤いを保つためにクリームを塗る。
30歳を超えてカラスの足跡が少し気になり始めた。保湿クリームの前に、最近ではシワ改善美容液も目尻に塗るようになった。
軽く歯を磨き、パジャマ姿のまま台所へ向かう。冷蔵庫からレタスと人参、大根、トマトを取り出す。サラダボウルにレタスを細かくちぎり、人参と大根を千切りにして盛る。そして櫛切りにした4切れのトマトをその上に飾った。
本当は玉ねぎのスライスも入れたいのだけど、そうすると彩菜が食べない。最後にサラダチキンと魚肉ソーセージを細切れにしてまぶす。忘れると、これもまた彩菜は口にしてくれない。
まな板を洗い、フライパンに油を垂らしてベーコンを弱火で焼く。少し火が通り肉が身を捩り始めたら玉子を3個落とし、フライパンに蓋をする。
「ままー。おはよう」
キッチンからの香ばしい匂いに釣られて彩菜が起きてきた。時計を見るともう7時前だった。庭に面した東の窓から朝日が差し込んできている。
「起きたのね。おはようアヤ。よく寝られた?」
「うん!めるちゃん!」
赤い巾着袋から、誕生日プレゼントとして買った《メルちゃん》のお人形を箱ごと抱えてきた。
「良かったねー。メルちゃん、パパに開けてもらってね。遊ぶのはまだ。ご飯食べてからよ。いい?」
「はーい」
箱の蓋と封印テープが少し歪んでいるのが見える。開けてみようとトライしたけど、きっと力不足で開けられなかったのだ。
「パパを起こしてきて。転ぶからメルちゃんはここに置いていきなさい」
「うん!」
早くメルちゃんで遊びたいものだから、今朝の彩菜はとても素直だ。箱をソファーにそっと置き、2階で寝ているパパを叩き起こす為に階段へ走った。
夫の翔一が彩菜を抱きかかえて降りてきた頃には、朝食を食卓に並べ終えていた。
「おはよう」
「おはよう。よく寝られた?」
「ああ。昨日走り回ったから少し筋肉痛だけどね」
よく女の子は男親に似ると言うけれど、なるほどこうして見ると横顔がよく似ている。
一瞬その面影を見せて、翔一は彩菜をソファーに下ろした。
「ちょっと顔を洗ってくる」
「アヤもー!」
はやく箱を開けてもらいたいので、今朝はパパにベッタリだ。
そんな微笑ましい姿を見送り、カップに入れたわかめスープの粉末に沸かした湯を注いだ。
「いただきます!」
『いただきます!』
今朝も、食前の儀式は彩菜が仕切った。今朝はこころなしか、いつもよりも気合が入っていた。
私はまず、翔一が用意してくれたトーストを齧る。そして、無糖ブラックのままコーヒーを啜った。翔一はいつもそうするように、今朝も砂糖1杯とポーションミルクを入れていた。
彩菜を見ると、珍しくサラダからトライしている。きっと良い子なところを見せたいのだろう。早く箱を開けてもらいたいから。
サラダチキンと魚肉ソーセージをフォークに3個ほど突き刺してレタスを突く。だが、トマトはまだ苦手で食べようともしない。
うん。今日も我が子は良い子だ。…少々、ドレッシングをかけ過ぎのようだけど。
*
「ごちそうさま」
食器を重ねて翔一は台所へと立った。彩菜が不自然に思わないように気を付けながら、そっと立ち上がり私もそのあとへと続いた。
「昨日の。あれからどうなった?」
さりげなく耳打ちする。
「うん?ああ、アレね」
「うん。アレ」
「アレって…どのアレ?」
サンタさんのプレゼントなので、彩菜の前では《アレ》としか表現できないが、よもやどのアレだか理解らないってことはあるまい。
翔一は時々、都合の悪い事象を抱えているとこういう恍け方をする。
翔一の泳いだ目を探るようにじっと見つめる。
「ああ!思い出した。アレね!大丈夫だったよ。うん。ちゃんと手配できたって」
浮足立った夫の挙動を囁き声で詰める。
「怪しい…。何か隠してない?」
「何も隠してないって。細工は流流、仕上げは御覧じろってね。後は俺に任せてくれって」
「ふ~ん」
やっぱり何か隠しているみたいだ。ならば後でちょっと鎌を掛けてみようかな。
「よ~し!アヤ。メルちゃんで遊ぼうか!」
「わ~いやったー!」
翔一は、彩菜を連れてそそくさとリビングへと向かった。
さては…、また余計な物をポチったかな?
私は食器用洗剤をスポンジに垂らしながら、今度は何を衝動買いしたのかを予想して楽しんだ。まあどうせ、家計を揺るがすほど馬鹿げたものではないだろうから。
それから小1時間ほど彩菜の世話をしていた翔一だったが、テレビからプリキュアの主題歌が流れ始めると、スッとソファーから立ち上がった。これで彩菜も暫くはテレビに夢中になる。
「ちょっと、着替えて散歩に行ってくるよ」
「あらそう。行ってらっしゃい」
片付けた食卓で私はわざとらしく家計簿を広げていた。それを見てきっと居心地が悪くなったのだろう。
翔一が着替え終わるのを見計らって、廊下へ見送りに出た。
「1時間」
「え?」
かかとに靴べらを差し込み、翔一は振り向いた。
「通常、《ブルートフォースアタック》っていう手法を使うんだけど、特定の相手のパスワードを盗み出すとなると、下手したら1千万年くらいかかるの。」
「え?え!?ちょっと何言ってるのか解らない」
唐突な天文学的な数字に翔一は目を白黒させている。
「ねえ、私に隠している事が有るでしょ?翔ちゃんのアカウント。1時間あればワタクシ、ちょっとしたプログラムを組んで勝手にアクセスできちゃうんですけど」
「まさか~」
さすがの翔一も、1千万年から1時間への短縮はブラフの貼り過ぎだと判断したらしい。なのでダメ押す。
「試しにやってみましょうか?ある程度の個人情報を手にしている場合、《グレデンシャルスタッフィング》という手法を使うんだけど。例えば翔ちゃんのパスワードって何桁?その情報だけでいい。それだけ教えて」
「え…?え~と、6桁だけど」
翔一は空で思い浮かべたパスワードの文字数を指折り数えた。
なるほど。暗記しているという事は、他のサイトでも使い回しているな?
そうとなれば、話の決着はついたも同然だった。
「6桁~!?ダメダメですね。3点です。100点満点中3点です!」
「え~?そんな馬鹿な。ちゃんとアルファベットと数字を組み合わせてるよ?」
「駄目よ~そんなの。プログラム組むまでもないわ。試しに当ててみましょうか?SE0623」
「惜しい!」
「もう!惜しいじゃないわよ!何を呑気な…。試しに私達の名前の頭文字と結婚記念日を合わせてみたけど、大体そんなところなのね?散歩から帰って来る間に開けちゃうわよ!いいのね?」
「わかったわかった!ごめんなさい」
ちょっと意地悪だったかな?
どうあれ、実際にはハッキングなんてしやしない。
ヤフーなんて巨大なシステムに対してそんな事する訳がない。危険すぎる。経由する海外サーバーが何基も必要だ。それに大前提の話だがそれは重大な犯罪だ。
それに、実はそんな技術を私は知らない。知っている単語を並べてそれらしく知ったかぶりをしてみただけだ。
在職中、私はハードウェアのエンジニアだったから、使う言語もPLC言語やC++。あとはVerilogで事足りた。
なので、情報通信やセキュリティーの分野に関しては、カマをかけるのも憚れるくらい何も知らない。
もしやるならばPythonを真面目に勉強し直さなくてはならないだろう。そんな面倒なこと、誰がするもんですか。
とかく、翔一の様なマネジメント側にいる人物は、《対話をするようにコードを書く》みたいに神妙に語るが、実際には《ハードウェア》と対話しているのだ。
《対話》とは、どれだけハード側に起こる経年劣化などの予測値が取れるかとも言いかえられる。それを動作のご機嫌を取りながら「調子はどう?」「これならいけそう?」と、機械に聞き取り調査をしていたのだ。そのからくりを翔一は知らない。
それはそれとして。あとで登録サイト全てのパスワードを書き換え直させる必要がありそうだ。
「大丈夫。怒らないから。帰ったら教えてね。そしたら勝手にこじ開けるような事はしないから」
「ぐ…、わかった。分かりました」
「この結婚指輪にもう一度誓って」
「はい。誓います」
いじめちゃった…。ごめんね。だって、分かり易いから可愛いんだもん。
ほんの少しだけ自己嫌悪を感じながらも、心の中では舌を出した。
さてさて、今回はどんな余計なオモチャを買ったんだか?
先日は、何を思ったか家電量販店でトイドローンを衝動買いしてきた。
結局アレなんかは、麻溝公園が飛行禁止区域と知ってそのまま埃を被ったままになっている。
またそういう、一時のテンションだけで終わってしまう物でなければ良いのだけれど…。
昼食を食べ彩菜がお昼寝した後、散歩のお土産で翔一が買ってきたシャトレーゼのケーキにフォークを入れる。
「で、翔ちゃん。今度は何を買っちゃったのかな?」
翔一はローテーブルの対面で胡座をかき、ヤフーにログインしながら苦々しげな表情を向けてきた。そんな上目遣いを一段高いソファーから見下ろす。
「心外だなあ。今回はあの三輪車を落札しただけだよ」
「あ、落札できたんだ。それじゃあ、何で素直に話してくれないの?」
すると翔一は、どうにも上手い説明が思いつかないのか、無言でPCをクルリとこちらに向けた。
《おめでとうございます!!あなたが落札しました》
マイオクの画面には確かにそう表示されていた。取引ナビを開くと最終落札価格が出てきた。
「1万円かあ…。中古品にしてはちょっと高いわね。…でもまあ、写真を見る限り…割とキレイなんじゃない」
「確かにな。でも、箱を捨てちゃったらしいんだ。だから現物丸々バラさないで送られてくる。送料が…ね。かなり高い」
「いくらなの?」
「ゆうパックの170サイズで…、3070円…らしい」
「え~?それもう、合わせたらほぼ定価じゃないの」
「そうなんだ…」
なるほど。そういう事で内緒にしたかったのか。
「《即決価格》で落としたみたいだけど…、もう2~3日様子を見ても良かったんじゃない?ほかの出品の動向も観察してみるとかさ」
「まあ、ね。それもそうなんだけどさ。でもちょっと俺、この出品者の人柄に感動しちゃってさ」
翔一は、まるで丁重な接客をする一流店の販売員の様に、ソファーに座る私の右手に跪いた。
マウスでページをスクロールし、さあご覧くださいとばかりに平手で視線を誘導する。
「へえ…、面白い紹介文を書く人がいるのねえ!」
「だろ!」
「うん。…でも、まさか…そんな理由でついポチっちゃったの?即決で」
「いや…まあ。そんなところ。気付いたらポチってた」
「呆れた」
翔一はしばしばこういう決断をする。割と感情的に大きな物事を決めてしまったりもするのだ。
そういったところは私の方が冷静でネガティブだ。時にその行動力を羨ましく思ったりもする。
「で、どうするの?こんなに大きな荷物。彩菜に怪しまれるよ?クリスマスまでどこに保管しておくのよ」
「それなんだけどな!やっぱ俺の目は節穴じゃなかったって言いたいんだよ!見てこれ」
そう言うと、翔一は、出品者と交わした取引メッセージを見せてきた。そこにはこう書かれてあった。
『この度は落札していただき誠にありがとうございます。いや~!男気のある即決。惚れ惚れいたしました。お子様へのクリスマスプレゼントのご予定ですか?もしそのおつもりでしたら、ひとつ提案がございます。配送に関しては25日着にしては如何でしょう?もし宜しければ、差出人サンタクロースからの贈り物という形で発送します。(24日ご希望ならば仰ってください)もちろんかわいい包装紙でラッピングして差し上げますよ。女房がそういうの得意なんです!それはもう、出血大サービスならぬ即決大サービス!という事で喜んでやらせて戴きますが、どうなさいますか?お返事お待ちしております』
私は、冷めかけたコーヒーを飲み干すと、ソファーにもたれて腕組みをした。
「なるほど。あなたはこの出品者のこういう気遣いに対して、更にグッと来ちゃったわけだ」
「うん。そう。………あのう、恵理さんも…グッとこない?」
翔一は、懇願するような眼差しで見上げてくる。私は素直に答えた。
「うん………。グッと来た」
「だろ!」
私の夫は、単純で感動屋さん。だから可愛い。可愛くてしょうがない。
ああ、何と可愛らしいのかしら。
この人はいつでも真っ直ぐな気持ちで物事と向き合う。そして情に脆い。
だが、邪な意思は時としてそんな無防備な心に付け入ろうとする。親切を装って良いように扱おうと忍び寄る。私は、そういう輩がいたらきっと許せない。守りたいと思った。
そう、プロポーズをしてきたあの日も、この人はこんな真っ直ぐな瞳をしていた。だから私はこの人と結婚しようと決めたのだ。
こんな人、心配で放っておけない。
「はあ…。しょうがないわね。どうせもう返事はしたんでしょ?」
「ああ!昨日、ちょうどログイン時間が被っていたみたいでね。お互いにリアルタイムで了解し合ったよ」
取引相手にやや怪しいところはあるが、とりあえずは今回は最大限の誠意として受け止めてみても良いかなと判断した。
「…そうね。それじゃ、お言葉に甘えましょう」
「うん!ご理解いただけたみたいで良かったよ」
まさかそんな事ぐらいで私が怒ると思われていたのはちょっと心外だったけど…。ま、イイか。
そうホッと一息ついたその時、翔一の表情にまだ何か言いたげな、そう。何か感情の淀みの様なものを感じた。
気のせい?そう思った。しかしその予感は間違っていなかった。
それはまた数日後まで粛々と進行されていく事になるのだが、その時にはさしもの私も気付くことは出来なかった。
こんな私にサポートしてくれるなんて奇特な方がいらっしゃいましたら、それはとてもありがたい話です。遠慮なく今後の創作の糧とさせていただきます!