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1球目|娘に三輪車を買う・3 菊地家

 坂下とガストで別れてから、会社に戻る道中。予想よりも早く雨が降り出した。それはそのまま雪になってしまうのではないか?そう思わせるほど冷たい雨だった。
 だが、結局は雪にはならなかった。東京で12月に雪が降ることは滅多にない。

 坂下は店を出たその足で、行き先を告げずにNHKホールの方面に去っていった。今頃アイツも雨に打たれているに違いない。
   嗚呼あああわれ濡れネズミだな。可哀想かわいそうに…。
 鼻で笑いながら心にもないことをつぶやく。

 会社は少し走れば目と鼻の先の距離であったが、僕は途中のファミリーマートに立ち寄ってビニール傘を買うことにした。何故ならば、会社に置き傘をしていないからだ。今朝の天気予報を観てこなかったので何とも言えないが、どうにも帰宅時までにんではくれない予感がする。
 また無駄な出費をしてしまった。このコンビニでビニール傘を買ったのは何回目だろう?過去にも何度か経験したことを、まるで既視感デジャ・ヴュの如く不思議に思う。

 あの後。15時に予定していた通り、システム仕様しよう変更について技術部と会議をした。そしてその詳細を全部署に社内メールで通知し、また掲示物として各階に貼り出す作業で2時間ほど費やした。
 その他は、いつもと変わらない雑務を変わらぬペースで片付け、週明けのスケジュールを確認してから社をあとにした。

「ただいま」
「あ、おかえりなさーい」
 妻の恵理えりが台所から応答する。パチパチと油がはじける音がする。大蒜にんにくの利いた醤油の香りが玄関までただよってくる。今夜は唐揚げか。
 あわてて傘立てにビニール傘を突っ込もうとしたが、夕方に使ったばかりの恵理と彩菜の傘が開いていて、上手く滑り込ますことができなかった。

「ああっ!またビニール傘買っちゃったんだ」
 エプロンで手を拭きながら駆け寄ってくる妻は、案の定あきれ顔を見せた。
 バツが悪い。傘立てのすぐ脇のシューズストッカーに過去に持ち帰った3本のビニール傘が掛かっていた。

「わかったわかった。反省しているよ。でも家から持っていくと、普段持って歩かないから電車とかに忘れてきちゃうんだよ」
 頭のどこに用意していたのか、言わなければ良いのに余計な言葉が口をついて出た。
「言い訳!」
 恵理は口を一文字に結び、両手の人差し指でその口の前にバッテンを立てた。
「…はい。ごめんなさい。明日からちゃんと天気予報を観てから会社に行きます」
「よろしい!」

 結んだ一文字からそのままクイッと口角が上がった。
「ご飯もうすぐできるわよー。着替えてらっしゃい!」
 叱られてからでないと見られない妻の笑顔というものもある。
   それも悪くないなと、ふと思う。

 あまり情けない父親の姿を娘には見せたくはないが、その時は幸い玄関に彩菜は現れなかった。どうやらまた、教育テレビの番組に夢中になっているらしい。録画だろうか?彩菜のドタドタとしたステップと共に《おかあさんといっしょ》の聞き覚えがある歌が聴こえてくる。
 《からだ☆ダンダン》という歌の合いの手、「ゴーゴー!」という彩菜の掛け声がリビングの方から聴こえてきた。僕はニュースを観たかったが、まだしばらくはEテレ地獄のようだ。

 濡れてしまった革靴をタオルで拭き、あががまちに腰掛ける。3本のビニール傘を見つめて少し考えた。
   もしヤフオクに出品したら、こんなもんでも売れたりするのかな?
 シャボン玉の様に浮かんでみては、キラリと光ったかすかな思い付き。だが、それはすかさず一笑にして、眉間みけんの先でパチリとはじけた。そして、先ほどまでパチパチと音を立てていた唐揚げの油も、いつしか静かになっていた。
   まさかな。そんな馬鹿な話はないよな。こんなビニール傘なんてどこにでも売っている。

 着替えを済まして、食卓を3人で囲む。
「いただきまーす!」
『はい!いただきます!』
 音頭おんどを取るのは彩菜の役目だ。僕ら夫婦もそれに続く。
 これが我が家のしきたり。崩してはならない厳しいルール。そう、冷静に考えると非常に厳しいルールだ。大前提として家族円満が恒久的こうきゅうてきに守られている必要がある。
 この先、この平和的団欒だんらんが崩れる事があるのだろうか?それを考えると少し空恐そらおそろしくなる。
 だが、妻は賢明で常に正しい。僕さえしっかりしていれば、きっと何の問題もなく、ずっと家族として穏やかに生きていけるのだろう。
 カリッとしてジューシーな唐揚げをホクホクと頬張ほおばりながら、今後の人生、そのように努めることを密かに誓った。

「ところでさ。アヤ。サンタさんにお願いするプレゼントって、何にするか決まった?」
 食後、僕は確認のために聞いてみた。すると意外な答えが返ってきた。「メルちゃん!」
「え?メルちゃんって?」
 すると、満面の笑みを浮かべながら幼児向けの雑誌を、おもちゃ箱の横にあるブックスタンドから持ってきた。
「メルちゃん!ぜったいメルちゃん!」
メルちゃんのウサギさん美容室…。ああ…そうかあ。これが欲しいの?」
「うん!」
「自転車って言ってなかったっけ?ミカちゃんが乗ってたような」
「それはねー!…う~ん…。お誕生日にするー!」

 予想外の変更が入ってしまった。まるで、無理な納期で追加注文をしてくるクライアントの様だ。これまで確認作業を怠ってきたこちらの落ち度もあるが、この土壇場どたんばでの予定変更は正直引く。

   いや…待てよ?本件は結論として《物理的に少し楽になった》。そういう事なのか?
 瞬間的に混乱して気付くのが遅れたが、トイザらスで秘密裏ひみつりに調達するべきは《メルちゃんのウサギさん美容室》に変更になった。ただそれだけの事なのか?
 そう。よくよく考えてみれば、三輪車よりもメルちゃんの方がモノとしては小さくて隠すのが容易だ。

 腕組みしながら宙をあおいでいる僕の姿を見て、皿を洗いながら妻は笑っている。そして、食器洗剤の泡がついた人差し指を口の前で1本立てた。
(言っちゃだめよ)
(分かってるって)
 口パクでそう応え、にっこりと微笑ほほえみ返した。

 思考の整理がついた。
「じゃあ。そうだな!お誕生日にはみんなで自転車を買いに行こうか!」
 僕がそう言うと、「やったー!」とピョンピョン飛び跳ねて喜んでくれた。

 どうやらコレでファイナルアンサーのようだ。当日までにまた思わぬ変更が発生するかもしれないが、もう断固としてこの予定で進めることにする。


こんな私にサポートしてくれるなんて奇特な方がいらっしゃいましたら、それはとてもありがたい話です。遠慮なく今後の創作の糧とさせていただきます!