8月18日元実況アナの週一コラムvol.3❗高校野球名監督・和歌山箕島高校・尾藤公さんを偲ぶ

今年3月6日で11年が経った、

その笑い顔に魅了されたのは
私1人ではない、

高校野球ファン
ベテランの域に入っている
大勢の皆さんがそうだったと思う。

 
それが元箕島高校監督
尾藤公(ただし)さん。

膀胱がんの為、
まだまだこれからの
68歳でこの世を去ってしまった。

野球を愛し
野球に明け暮れた生涯を惜しむ人々
600人が葬儀に参列、

ミカンで有名な
和歌山有田市が悲しみに包まれた。


そんな尾藤さんは
箕島高校時代は4番・捕手、
残念ながら甲子園での
プレーはなく
その後近畿大学へ進学。

しかし腰を痛めて野球を断念、
悔しい思いの中で
一度野球から離れたのである。


そんな状況下
母校箕島高校から
コーチの要請を受け、
再び野球熱に火が灯る。

正に神の導きか・・・

翌年には監督に就任、
ここから箕島・尾藤神話がスタート!


先ずは監督就任から3年後の春、
東尾投手(後の西武ライオンズ監督)を擁し
甲子園初出場。

自身も選手時代から
憧れていた大舞台、
甲子園球場に足を踏み入れたのである。

その貴重な采配を振るった2年後、
監督となって区切りの5年目に
更なる結果が待っていた!

今度は
サウスポー島本投手を中心とした
まとまりあるチームを率い、
1970年
第42回選抜大会で
紫紺の優勝旗を手にしたのだ。

がしかし
この時監督としては若い
28歳という年齢もあり、

熱血さ故スパルタ指導となり

選手の気持ちが離れて行ってしまった。

春頂点から僅か2年後、
何と監督を退いたのである。


恐らく無念の気持ちを
噛み締めながら、
門を叩いたのはボーリング場。

ここで尾藤さんは、
接客に従事した。


振り返れば
この一時の仕事・携わりが、
来るべき
第二次政権で生かされるとは
思いもよらずに。

いや
敢えてこの道を辿る様に
仕組んだのは、
天の声だったのか?

いづれにしても
2年4ヶ月の月日が
尾藤さんを大きく変えたのは
間違いない。

接客業で身に付けた
これ迄以上に
人をいたわる気持ちと笑顔で
1974年
自身間もなく32歳の時
再び母校の監督に復帰した。


練習中の厳しさは変わらないものの、
試合中は
野球以外で学んだ笑顔で
接するように
なったのだそうだ。


すると
選手がノビノビプレーし
結果が出始めた。

そして1979年
石井ー嶋田のバッテリーを軸に
第51回選抜を見事制覇すると、

勢いそのままに
夏の地区予選を勝ち抜く。

そこで迎えた
第61回選手権大会で、
高校野球史に
和歌山・箕島高校が刻み込まれた
壮絶な試合が待っていた!


43年前のこの時期8月16日、
対石川県・星稜高校戦。
試合開始のサイレンが
鳴ったのは夕方4時6分、
世紀の死闘が幕を開けた。

先攻・星稜
後攻・箕島

両チーム4回に1点を取り、
それ以外は0が並ぶスコアボード‼️
結局そのまま1ー1で延長戦。
ここから
想像を超える
ドラマが繰り広げられる。

星陵が12回に1点勝ち越し2ー1、
その裏
箕島2死ランナー無し。
多くの方が星稜の勝ちを意識する中、
打席に向かう捕手嶋田宗彦は
何と『ホームラン打って来ます』と
バッターボックへ!
信じられない事に、
打球はレフトラッキーゾーンに飛び込む
同点ホームラン‼️
嶋田さんに
阪神タイガース・バッテリーコーチ時代
話を聞くと、
あの時は「打てる気がしたんだよ」と
話してもらい
筆者身震い。

2ー2で試合は続く‼️

延長14回裏は
箕島1死2塁から
ディレードスチール成功で
サヨナラの大チャンス。

しかしここで
またしても驚愕のプレーが・・
星陵サード若狭の隠し球で
サードランナー・タッチアウト、
箕島無得点で攻撃終了。

このプレーで流れを引き寄せた
星稜は16回表
7番山下のタイムリーで
再びリードの3ー2。

その裏箕島又しても
2死ランナー無し!
流石にもう無理だろう⁉️と
思われた中、
6番2年生・森川の打席で
奇跡が起こる。
先ほどの嶋田と違い、
初球打ち上げ

ファースト・ファールフライ。

しかも落下地点は、
スタンドには届かない所で
終わった!と大勢が思った次の瞬間
星稜ファーストを守っていた
加藤が転倒してノーキャッチ。
まさかの事態になったのだ!

実は甲子園
この年から
ファールグラウンドに
人工芝が敷かれ、
スパイクがその張り替え部分の
角に引っ掛かったのだ。

とは言え
いくら命拾いをしたといっても
2死ランナー無し、
気持ちを切り替えて行けば
星稜の勝利濃厚は間違いない。
星稜・山下監督も
肩の力を抜いて行こう❗
という仕草で
サウスポー・エース堅田を鼓舞した。

次のボールでストライクを取り

追い込むも、
その後森川の打球は左中間へ上がり
嘘のようにスタンドイン。


練習試合含めても
ホームランを打った事無かった
バッター!
14回裏に隠し球で
アウトになっていた泥んこの
ランナーが
森川だったのも

ドラマティックで
もはや筋書きを超越する同点弾。
そこには1塁ベンチで、

驚異の粘りを讃える
尾藤監督の笑顔が有った!

そんな奇跡が続くこの試合
尚もイニングは進み、
17回は共に
三者凡退。


いよいよ規定の
最終18回へ突入した、
点を取らないと
この日の勝ちが無くなる星稜は
意地で2死満塁のチャンスを作り
代打・久木。

山下監督がポンと
肩を叩いて送り出すも
アンダースロー石井が
ここ一番の投球で三振を奪って
スリーアウト、
再試合へ向け
星稜は気合いの守備に散る!

いよいよ18回裏箕島
2つの四球で1死1・2塁と
サヨナラの好機。
ここで5番上野、
インコースのボールを左中間へ!
打球はレフトの前に落ち
セカンドランナー辻内が
ダイビングヘッドで
サヨナラのホームイン!
凛烈の意気が、
掴んだ勝利。

試合終了を告げるサイレンが
響いたのは7時56分、

試合時間:3時間50分
今でも
高校野球史上No.1ゲームとして
語るファンが多いのも
大いに頷ける。
 
加えてナイター照明まばゆい中、
試合後にも
隠れたドラマの続きが
有ったのである。

208球を1人で投げながら
敗れた星稜・堅田投手に、
球審を務めていた
永野さんが歩みよった。

そして
「良いゲームだった、ご苦労様」と言って
記念球を手渡していた。
これに感銘を受けた堅田さんは
社会人野球引退後、
高校野球の審判員を務め
球児に声を掛け励ます存在に
なっていたのだ。

昔から
笑う門には福来ると言うが、
1つの笑顔から
とんでもないストーリーが
生まれたのだから
正に格言。

その笑顔の尾藤監督の指揮は続き、
1995年に勇退。
その後放送席で、
何度もあの笑顔を見させて頂いた❗
全力疾走・目一杯の
プレーを見た時は
飛びっきりの。

熱戦続く今年の夏も、
間違いなく天国で笑っているはずだ。

そう皆が励まされる

尾藤スマイルで‼️











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