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小説【一】雪月花に縁するひとひら

いとしい子らと学び、いきる日々を
あらたな創造に満ちあふれた日々を
 
この手の中にのこしてくれた
最愛なるあなたに

―雪月花の刻、最も君を憶ふ



水屋に陶器のコトリコトリと置かれる音が響く。
やわらかな布で、残る雫を拭き上げるとそれだけで一抹の達成感に満たされる心地がする。
今日の茶碗は、初釜のために吉祥紋が多くあしらわれている。梅花が目については、ついと布巾で撫でてしまう。我が家の庭の梅が咲くのはまだ掛かるだろう。上洛から三十年が経とうというのに、京の冬には不慣れであるが、この開花が早いことだけはいつしか好もしくなった。
雪国・会津の開花は弥生とともにやっと訪れるくらいだ。花の命の長いことは八重の心をよく慰めてくれる。
 
(襄が歓ぶからだわ)
 
亡き最愛の夫は厳寒に先駆けてひらくこの花を、殊の外愛でた。
「梅は八重さんのようであるから」と。
 
末客への呈茶が間もなくだなと茶席の様子を伺って、そろそろ人心地がつけそうである。師匠のお点前の様子の気配を探る。
若いながらに、茶の湯を守る青年の一服には和敬というものを感じられて、八重は好ましかった。
 
私の最初の茶の湯の師である千猶鹿子様に「稽古においでになられませぬか?」といざなわれた折には、首を傾げてしまったものだった。
彼女は先々代・千宗室こと玄々斎様の御息女であり、女学校などで茶道指南を請け負っている。八重は女紅場に勤めていた時期に知り合っている。
しかし、稽古をつけてもらうため屋敷を訪ねるにはいつもより間があいていない。
「家元が帰洛しましてね」
ご紹介できれば―、と言うその人は猶鹿子の実の息子で、号は宮様御二方から賜ったとか。
その名、圓能斎鉄中。
帝が東京へお遷りあそばされたことに従い、華族の方はたくさん京都を離れた方も多く、随分と寂しくなってしまっていた。みやこが遷るということは、仕事がうつり、人が移り、生活が移る。人の賑わう中で次の芽吹きに備えねばならない。
茶は人と共にあることで栄えたものであったし、藩お抱え茶道頭を務められるお家は武士の世が終えたことで新たな形を模索せねばならなかったのだ。そのために、家元は古都を両親である先代夫妻に託し、家元当人は五年ほど上京を果たしていたと言う。東日本での茶の普及に一定の手応えを得て、この度荒神口に居を構えられた。
 
彼はお家を守るために、戦っているのだ。
砲術を手放さざるを得なかった我が山本家を思うと、裏千家のこの涙ぐましい闘いは八重には愛おしむほかない。銃は人を傷つける。ゆえに明治という時代にあって、お家芸を振り捨てることは已むないことだった。だから、脈々と祖先から受け継がれてきた技藝と精神を、如何にこの新しく生きにくい世の中で生き抜かせていくのか。それに腐心する若者の背を押してやりたいと考えるまで、長くはかからなかった。
 
(それに―)
 
今は直接に手解きを受けることも少なくなくなった―、今日の稽古で亭主役を務める圓能斎の側頭を、眩しい思いで水屋から眺める。猶鹿子に引き合わされて、既に四年の歳月が流れていた。
 
「ほんなら、お疲れさんでした」
圓能斎の穏やかな声が聞こえ、水屋から数人と茶室の方へと入っていく。
 
大切なものを守らんとするために、変わりゆくことを懼れず未来を求め美学を持ち進む青年は、若い頃の襄のようでもあると思ったのだ。
圓能斎は数えで二十八になったと言っただろうか。襄はアメリカで大学の課程を終えて、神学校にあった頃だったはずだ。
求めるものに、持ちうるものすべてを与えよと主も仰せになっている。彼らは、新島八重の能力と看板とを、見込んでくれたことによる縁だと言える。
またあの頃の八重にも心の安寧は何にも代え難いものだった。襄を見送ること数年、兄・山本覚馬も天に召され、今まで以上に女手で家を立ち行かせていかなければならない頃であったから。
 
そして、これは八重にとっても使命を果たすことと、襄の意志を継ぐことに他ならないのだ。
 
若く志あふれる者を慈しみ育むこと。
それは同志社の外でも同様にできることを知っている。
 
(私は、私の戦場を求める)
茶の湯然り、看護然りであるのだ。砲術がなければ立ち行かないようには亡き兄や父母に育てられていない。

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