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バーへ行く理由

バーへ初めて行ったことを思い出したのでnote。

初めてオーセンティックなバーへ行った時のことを、よく覚えている。

綺麗なバックバー。白いバーコート。左端から2番目の椅子。大きな花。頼んだお酒。美味しかったこと。そして、店を出た時の安心した気持ち。

初めて行ったバーは、今でも特別なバーだ。重い扉を開けるには勇気がいる。勝手のわからない恥ずかしさをマスター以外に知られたくなかった私は、なるべく人のいない時にと、開店して間もない時間に行った。

扉を開けるとマスターの笑顔が見えた。先客はなし。心の中でガッツポーズ。メニューをもらったが、頼むお酒は決めていた。今日のためにインターネットでたくさん調べてきた。こいつを頼めば、お店のことがわかるらしい。(その理由はよくわからなかったけど。。。)

「ジントニックをお願いします。」

お酒を作る過程を見ていて思ったことは、これが「所作」かということ。一つひとつの振る舞いに、一体どんな意味が込められているのか。わからないことだらけの中で、一杯のお酒を作るその所作に見惚れた。

味は思い出せないが、美味しかったということは覚えている。

一度行けば大丈夫だ。最初の扉さえ押すことができれば大丈夫。私の中ではここがバーの原点であり、お酒の原点でもある。あれからよくバーへ行くようになった。

バーのお酒はおいしい。

バーでは日常を離れた空気が楽しめる。私にとってバーは特別な場所だ。日常生活の延長線上、ちょっとした遠出。いつもと違った離れた場所へ行く楽しさがある。

バーは誰かと共有したくなる。誰かのためにお店を選ぶことが好きだ。誰かを連れて行くときに「どんなお店が好きかな」「楽しんでもらえるかな」といったことを考えたい。そこにはきっと、こんなお店を知っているのだという自己陶酔があり、他者からの羨望を得たいという気持ちもある。しかしそれ以上に、自分の好きなものを他者と共有したい気持ちがある。そしてその一つの解として、バーを持ちたい。いいなと感じるバーに出会いたい。

好きなもの、いいなと感じたものを共有したい。それは半分エゴでもあるが、そうせずにはいられないと思わせる、それが特別なバーだ。

美味しいと感じること、マスターとのおしゃべり、雰囲気、内外装、身の丈、使い勝手。判断の基準はたくさんある。しかし、それは限りなく感覚的だ。きっとたくさんの感覚が積み重なって、基準となっている。目に見えないもの。言葉にうまく表現できないこと。そんな難しいものなのに、私はそれを大切な人たちと共有したいと思う。仮に感覚をともにできたとしたら、それは何より嬉しいことだと思う。

感覚が否定されることは辛い。それは、感覚が目に見えないものであり、無意識のうちに形作られてきたものだからだ。感覚はその人そのものだと思う。感覚の否定は、ある意味では生の否定かもしれない。解釈なんて人それぞれだとわかっていながら、自分の感覚は否定されたくない。

感覚は、考えや価値観とも言えそうだ。実体がなく、言葉にもできないもの。だからこそ、理解してほしいし共有したい。我ながらなんてずるい話だ。

けど、私がいいなと感じたものを大切な人と共有できた瞬間。きっと私はそれが嬉しい。