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2024/03/27(水) - 浮かれた春

数年ぶりに春っぽい雰囲気の中にいる気がする。
コロナ禍でフル在宅ワークだった時は花粉と朝窓を開けた時の気温くらいでしか春感じなかったけど。
世の中の人たちは割と春で浮かれるんだなぁ〜って感じがする。
大して娯楽施設の付近でもない駅のホームにもおもちゃサングラスが落ちてるくらい。

まだ花粉のせいかぼーっとする時はあるものの、職場環境も落ち着いてき、自分自身でも色々と身についてる感が何となく出てき始めたので気持ちにも余裕が出てきた。
何をどう思ったって日々は進んでいくので、進んでいくもんなぁでなんとなくここまでの色々は消化できたような気がする(ほんとか?)

自分の環境が変わるわけでもないけど、なんとなく年度末・年度はじめの雰囲気は色々と行動に言い訳ができて動き始めやすいような気持ちになる。春だしとりあえず始めてみるか〜みたいなこと。
始めることがすべて良いことである必要はないよな〜人に迷惑かけてなければ〜くらいの感じ。
冬から春の間(ここ1ヶ月ほど)は、昔親に言われたそんなの意味ないとか、後で後悔するからやめときな、のシーンの記憶が断続的に思い出されてかなりしんどかったし実際に日常でも珍しくメソメソしまくっていて、あんまり交流があったわけでもない友達の結婚式でご両家のご両親のホスピタリティが凄過ぎておよおよ泣き続けてしまったりした。
自分の親の言葉たちは、自分の親と自分の感性がかなり違っているのでその言葉たちはあんまり心配のいらないことばかりなのだけど、季節のせいだか何でだか全くわからないけど日常にすごく澱を落としている感じがした。今とはまったく関係ないことばかりだし、親に何言われようとまったく違う人間だから参考にならないことは理解しているものの、だからって単純に知らないふりできるほど人間って割り切れてないのかも〜とか思ったりした。わたしの修行が足りんだけかもしれないが。
何も足りないものもなかったし、仕事だって絶好調とは言わずも居心地悪いこととかも全くなかった。他部署の同世代とも友達になれたし。でも、今までにないメソメソ仕方だったんだよな〜。
これからまた2年くらい経ったら何か分かるかもしれない。

でもやっぱなんだかんだ、自分と違う形の型に無理に身体を捩じ込もうとするのでなくて、ちゃんとその場その場でうまく共存していきたい。いや共存はできなくても少なくとも自分は傷つかないようにしたい。

まったく関係ない話なのだけど昨今のTwitterで、他者を神格化するという行為は引いては自分のことも神格化し、自己評価が無理に高い状況になる、それはセットだと思っている、のようなことをつぶやいている方がおり、なんでも他者に関することは引いては自分に降りかかることなんだよな、というのをすごく同意して見ていた。
ここ数年で、自身でも自分に厳しくすることは他者に厳しくする(批判したりしてしまう)ことだし、他者へ厳しくすることは自分にも呪いをかけることに近い、という解に至ったので、
まあ、、、なんですか、、、何の話かわからなくなってしまったけど、その辺はちゃんと自覚していきましょうね。ってことだと思う。
(この辺なメソメソ期もなんやら自分への期待が高くなってしまっていた結果かもしれんし。)

やっぱり人生はむずいですね。
終わり。

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