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自分を生きるのが下手すぎる


自分の人生を生きるのは自分しか居ないのに、なんだって私って奴はこんなに私の人生を生きることがこんなに下手なんだろうと思うことが人生においてというか、最早毎日の中に沢山ある。
例を挙げるとするならば今日はあれをやろう!と思っていた肝心のあれを目の前にした途端心も顔もすんっ…となってしまうところや、冷蔵庫の中にあの野菜とあの食材があるから今日はこの献立で行こうと丁寧にメモを取ったところで、いざ食事時間になると一切の家事が嫌になって結局デリバリーに大した食べたくもないものを頼む時など。

心と身体が伴わないというのか、ちぐはぐというのか、不仲というのか。何なら毎日が不毛な殴り合いである。挙げ句の果てにせめてどちらかが勝ってくれれば私はそちら側についていくのに、毎回共倒れの形でどっちも倒れるのだから始末が悪い。心にも身体にも見限られる程のことをしたというのか、この私が。思い返せば心当たりの山に辿り着くような気がして、私は現実逃避の川に逃げるのだ。その川を人はインターネットガンジス川 Twitterと呼んだ。

丁寧な暮らしというタグで検索を掛ければ、そこには数多の人が自分の思う自分なりの丁寧な暮らしの中で一生懸命生きている。好きな系統でまとめた家具や雑貨に囲まれた部屋や、料理が趣味の人のキッチンには手作りのスパイスラックに沢山のスパイスが綺麗に並べられている。部屋に幾つも飾られているグリーン達は造りものではなく本物のようだが、そのどれもが枯れることなくしっかり手入れされて窓辺で大切に育てられていた。
そういう写真を見ると、しみじみと凄いと思う。染み入るように感心してしまう。自分の好きなもの、心地いいと思うものを自分で把握している上、行動にまで移している証拠だと思うからだ。

同時に私はがさつな暮らしというものも好きだ。片手鍋でインスタントラーメンを煮こんでキッチンで立ったまま啜ったり、いつからかそこに落ちているのかも分からないゴミを認知しておきながら一生を添い遂げる覚悟でもあるのか拾えずにいる生活。それもまた人間らしくていい。
人から聞く分には、見せてもらう分にはいい。どんな人生にも良さとドラマを感じる。なのにどうして主人公が自分のフィルムになると見ていられないんだろう。不思議だ。

当たり前に考えれば当事者だからなんだろうか。自分の人生を生きている当事者だからこそ、舞台裏や現実の自分を知りすぎていてやいのやいのと言いたくなるんだろうか。自分が付ける評価は大抵☆2、頑張っても☆3だ。その評価を自分でしておいて、後からああこの日も人生を上手く生きていなかったんだと痛感する。なんて生産性の無い行動なんだ。自覚はあるのにやめられない、その行動も☆2。大体の行動、大体の毎日、大体の総評が☆2。そんな気分の日が増えた。そんな気分の日にキーボードを叩き始めてしまったからだろうと思っていたい。

今の自分の身体が今まで自分が選んで食べたもので出来ているように、今の自分の人生は生きて来た通りのもので出来ているとすると、なるほどなぁ〜と思える日もある。だけどそうとも限らないんじゃないんですかねと抗いたくなる日もある。自分の人生に納得出来ていないことと、自分の人生が下手っていうことはイコールで繋がっているんだろうか。分からないけど、とにかく言えるのはままならねぇの一言である。

なんだってこんな記事を書き始めたかって、本当はTwitterにもっと完結に「人生ってこういうのあるよね〜」ともっと前世がたんぽぽの綿毛か何かなのかとばかりに軽ーく簡潔に書きたかったのに、現在Twitterは前代未聞のAPI制限の乱の真っ只中にいる。

おすすめタブをどんどん下にスクロールしてまだ見ぬ猫ちゃん、お茶目な犬、いつも何か食べてるビーバーなどを表示し続ければあっという間に弾き出されてしまうのだ。だから我慢しなきゃいけない。今まで息する感覚で言葉や気持ちを吐き出していた癖も改めなければ、イーロンが真後ろに立って私の肩を叩いて酸素を止めにやって来る。喋りすぎるとイーロンさんがやって来るよという怪談が流行る夏になるとは想像もしていなかった。

呟きたい時に気ままに呟いていた毎日から、そういうわけにもいかないんだよの状況になって数日。やはりツイ廃の私の脳みそはどうも詰まりを起こして言葉や感情を上手く印刷出来なくなってしまったため、こうしてnoteに記事を書いている。1ツイート140文字と思えば、ツイートしないでいると大体はこれくらいの文字数になるのかもしれない。

その現実に直面した時、私はとても正直に生きているため

「そんなこと知るか、140字の美学ってもんがあるんだよ」と心の中で駄々を捏ねた。

しかし身体は取り敢えず脳の詰まりを良くしたいため一心不乱に現在進行形で文字を思うままに吐き出し続けている。今日も今日とて相討ち覚悟の心と身体の殴り合いだ。

ほらね、言ったでしょう。今日も私の人生はままならなかった。

だけど今日も☆2を付ける。何故かって、☆1程ではないという思いがまだあるからだ。これを書きながら考えたことがある。丁度アパートの窓にスペースがあるから小さい鉢植えでも置いてみようかって。置いたところでどうにかなるとは毛頭思っていないにせよ、今よりいい感じにはなるはずだ。そうに違いない。

自分の人生を他ならぬ自分自身が生きることを下手くそでも、いい感じにしようと思えたのは前進なのかもしれない。窓辺に本当に鉢植えを置くのか置かないのかはまた別の話にしたってだ。そう思うことにする。

お陰様で晩御飯のおかずが一品増えたり、やりきれない夜にハーゲンダッツを買って食べることが出来ます