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推しと諦観の話

「推し」はいつから登場したのか

推しメン、推しキャラ、推し活…。今や当たり前になった「推し」という言葉だが、そもそもこれはいつごろ登場した言葉なのだろう、と考えてみる。
私が小学生の頃、「推し」という言葉はあまり一般的でなかったように思う。アイドルの話をするにしても「〇〇が好き」といった表現をしていた記憶がある。コミュニティの変化の影響もあるだろうが、中学生(2016〜2018年)頃に「推し」という概念がちょこちょこ登場するようになったと私は思っている。

オタク的行為へ向けられる目線の変化

「推し」という言葉が登場した当初は、この言葉が持つ意味は「コンテンツや芸能人へ向ける好き」であった。アイドルや歌い手、ゲームやアニメのキャラクターに対して利用され、「最推し」「推し事」といったそれにまつわる単語も生まれた。「推し」という単語が社会に広く普及するのに伴いオタクという存在・行動の世間的な評価も変わっていった。中学生の最後の方や高校生(2020年代)になると「推し」がいることが当たり前、といってもいいほどにオタク文化やオタクであることはライトなものに変貌した。キラキラした可愛い子たちが推しの話をして推しに限界化してるの、なんかもうすごい上位種間での感情のやりとりを見ている感覚がした。私はこれがちょっと(だいぶ?)嫌だったがオタクである、ということが一種のステーテスにもなりうる時代となったように思う。(その話をここに書くと分量と情報量が氾濫するので今回は留めておく。)
「推し」の存在がライトになった高校生時代、私は「推し」が内包する意味にも変化を感じていた。

現実の人間関係に広がる「推し」

前置きが長くなってしまったが、ここからがメイントピックに関するお話になる。高校生になった頃、友人から「〇〇くん(同じ学校の子)推しなんだよね」という言葉を聞くようになった。まぁ三次元の推しもいるんだし、より近しいところに推しがいても不思議ではないか、と当時の私は思ったのだが今になって考えるとここから「推し」と言う言葉はどこか諦観を含んでいたように思うのだ。

「推し」と諦観

対象がアイドル等であった場合は「ガチ恋」「リアコ」と言う推し方もある。しかしリアルの人間関係における「推し」は基本的に恋愛感情は含まれないものとして扱われる。それはあくまでオタク的な視点からの「好き」であって恋愛的な「好き」ではない。さて、オタク的な好きと恋愛的な好きの違いはなんだろうか。
ズバリ、容易に表出させられるか否かではなかろうか。
オタクとしての「好き」は躊躇することなく表に出すことができる。「料理が下手なの可愛い」「眠そうで可愛い」「声が好き」「流石にビジュが良すぎる」など。これを読んでくれているあなたもツイッター上で推しに対して狂ったことが幾度となくあるのでは?私がそうなのでそうであってほしいな。コンテンツのオタクにとって対象への好意をアピールすることはいわば自身がそのコンテンツのオタクであるためのアイデンティティである。同じオタク同士での繋がりが生まれることもあり、積極的に好意を発信していくことは歓迎される。
対して、恋愛における「好き」は堂々と声に出すことは難しい。意図せぬタイミングで相手にばれようものなら終わりだ。好意が相手にバレないように相手との関係性を縮めていくものだろう。多分。書いている本人の恋愛経験があまりにも不十分なので確信は持てないのが悲しいところ。
さぁここで、「推し」が非常に便利な分類となってくる。
「推し」というラベリングをすれば、その対象に向かって容易に「好き」を伝えることができるのだ。伝えられる、というと少し語弊があるが、伝わってもいいと思える、くらいに捉えてほしい。たとえば、自分は絶対に叶わないと思っている恋があるとする。そんな時、誰にも言えず恋情を腹の中で燻らせるよりも、いっそのことその恋を推しへの感情へと変換できれば、頭の中に渦巻く「好き」は日の目を見ることができるのではなかろうか。恋と自覚することを諦める代わりに、感情を隠さず伝えられる。乱立する「推し」の存在に私はそんなことを思った。


いくつかのアドカレに参加させていただいているのですが、初めて書いたアドカレ用の文章は実はこれなのであまりにも不慣れでよくないですね。なんだかレポートみたいになってしまった。稚拙な文章ですみません。


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