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電車でスマホをみて笑うひとと距離を置く心理

電車に乗った初めての記憶を思い返してみる。

あれはたぶん小学校に行く前、少し大きな病気をして遠くの病院にまで通っていた時である。長らく中央線に揺られていた。

当時の私は電車に乗るやいなや、猛烈な勢いで靴を脱いで窓から見える外を見ていた。今みたいに電車が静かに走るわけでもないから、すれ違う時なんかは結構な音が鳴る。外を見るのに夢中な私は、電車同士がすれ違った時のその爆音にいたく驚いて、次こそはびっくりしまいと窓に顔をべたりとくっつけて、向かい側の電車を見ようと奮闘したものである。

あのころ、幼いながらもおぼろげに覚えているのは、当時の大人たちは紙の本を読んだり、新聞を読んだり、もしくは何もしないでいたということだ。当然、携帯電話など今ほどエンターテインメントが充実しているわけではないから、携帯を出してポチポチやっている人も少なかった。


20年のときを経て、そうした電車での風景は様変わりした。

いまや電車でみなスマートフォンを触っている。誰もが下を向いている。ぽーっと電車内を見渡すと、ほかの人がスマートフォンを使っていることに気づかないほど、誰もがスマートフォンの画面に吸い込まれ、没入している。

その没入している人の中にも結構すごい人がいて、おそらくスマホで動画か何かを見ているのだろう、電車内であるにも関わらずひとりで「ふふふ」と笑いながら画面に夢中になっている。

そういう人を見て、周りの人は距離を置いたりするものだ。包み隠さず言えば「気持ち悪いな」「ヤバそうだし近づかないでおこう」とか、つまるところ不審者のように感じるわけである。

一人で家にいるときに動画を見ながら「ふふふ」と笑うことはもちろんあるけれども、電車内という公共空間であれば、ある程度行動が規制されて「人前だから笑わないでおこう」とかなるのがふつうである。

電車内で笑っちゃっているひとというのは、要はパブリックな空間に社会と交錯するはずのないプライベートな行為を持ち込んでいるということでもある。その様子がおよそパブリックな空間の行為としては異常なものであるから、「気持ち悪いな」と思われている、と言うことなのだろうと思う。

大体マナー違反と言われるものは、このパブリックな空間をプライベートな行為で侵害するときに起きるものだと思う。電車内での化粧や歯磨きとか、そこらへんで用を足すとか(まあやむにやまれぬ場合もあるから仕方ないのだが)、挙げればきりはない。

もっといえば、パブリックな空間でもプライベートなことをしてしまうくらい、社会とのつながりが断絶してしまっているという事態そのものは、懸念すべき問題ではある。

哲学的な問題ではあるが、自分の内なる心が「いま、これはいかん」ということを命ずるのか否かと言うのは、人間の質を決めるうえで非常に重要なことだ。今この場でやってはいけないことを認識しているかどうかということである。それがわかっていないように見えるから、人が離れていくのである。

しかし、没入しているひとは、そうやって距離を置かれていることにも気づいていない様子だ。傍目に「気味が悪いなァ」と思った私の手には、しかとスマホが握られているのである。

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