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「太陽の季節」のおわり

私の職場には、「ピー」とか「ポ―」とかやけに耳に残るアラートらしき音とともに共同通信の速報ニュースを読み上げてくれる、通称「ピーコ」というサービスが導入されている。うち、特に大きなニュースは読み上げる前に「キンコンキンコン」と学校のようなチャイム(通称ビッグ・ベン)が鳴る。

ふだん、キンコンとチャイムが鳴ることはない。レベル的には安倍首相辞任とか、緊急事態宣言発出とか、9.11とかのニュースで鳴ることが多いのだが、ちょうど2022年2月1日、そのチャイムが鳴った。

作家で、元東京都知事の石原慎太郎さんが亡くなった、との知らせだった。


石原氏と言えば、三島由紀夫との関係が深いことで知られる。グーグルで「三島由紀夫 石原慎太郎」と画像検索すると、ビルの屋上から少し体を乗り出して街をみる、バリシブい若き二人の写真が出てくる。今の時代にはそうそう見ない「漢」のなりをしている。

個人的に、石原氏を語るうえで特筆すべきは作家としての活躍であろう。「太陽の季節」や「完全な遊戯」とかは有名だが、いずれも個人的には好きな作品だ。「太陽の季節」では元気な局部で障子を突き破り、それを見てびっくりした女が本をそれに向けて投げて見事命中するというシーンがあまりにも有名だ。だいぶ前、石原氏が漫画の表現規制について厳しい姿勢を示したときに「お前だって当時はこんなもんを書いていただろ」とやり玉に挙がった作品でもある。

ちなみに、単行本の「太陽の季節」に収録されている「灰色の教室」は、猛烈な虚無感というか、決して満たされることのない若者の人生の虚ろさみたいなものを感じさせる作品で、印象深い。

閑話休題。

で、この「太陽の季節」から、夏に反倫理的で、享楽にふける不良っぽい若者を指して「太陽族」という言葉が生まれ、当時の若者を指し示す表現として流行した。

最近の若者に話を移すと(まあ、私もまだ20代の若者なのだが)、よく「ゆとり世代」とか「さとり世代」なんて呼ばれて、「太陽族」よろしくギラギラした言い回しからはずいぶんと隔世の感がある表現に落ち着いている。上記した小説の中にある享楽にふける若者など、正真正銘の絶滅危惧種になりつつある。


私たちの世代は、日本の繁栄を知らない。日本が経済大国として輝き、きっと未来はよくなる—と信じられる日々を、知らない。

だからどこかで「こんなもんだ」と悟ったり、「楽な方がいい」とゆとりを求めたりして、行動もせぬまま諦めていってしまうのかもしれない。そんな風に生きた方が、精神的には安定するし、楽だし、コスパもいい。


しかし、その前提にあるのは「昨日と同じ今日が、また明日もある」という圧倒的な平和だ。その平和は、当たり前のものではない。歴史を紡ぎあげた先人たちがいろんなものを守り抜いて今がある。

戦後間もない日本を駆け抜けた若者は、太陽のように輝ける日本の繁栄を享受して、年を重ねて、ひとりまたひとりとあちらの世界へと帰っていっている。

それは、生きている人たちがだんだんと、国が繁栄していくということを、肌感覚として理解できなくなっているということだ。「太陽の季節」の持つまぶしさが、少しずつわからなくなっている。

私たちは若いのに「日本という国の落陽は目の前に迫っている」と悟って、人生にゆとりをもって、そしてただ傍観するばかりで、果たしていいのだろうか。凋落を続けた日本の夜更けがいまならば、私たちは「太陽の季節」を直視しようとしているのか。訃報にふれ、ふと思いが至る。

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