見出し画像

「誰かのために」と張り切るのが人情

自分の意中の人に「〇〇さんの手料理が食べたい」と言われたときのことを考えてみると、きっとだれもが張り切るはずだ。

ひとりのときでは考えられないくらい、頑張るのである。

考えてみれば夏場は夏場で水はぬるく、火を使うとなると台所がやけに暑い。冬なら冬で水が死ぬほど冷たい。米を研ぐのも一苦労である。
どんな季節でも調理場は戦場だ。
二人分の食事を買う金もかかるし、帰るときには重たい荷物を持ちかえらなくてはならない。
準備から完成まで、本当に手間がかかる。
大概、食事を作るのには1時間くらいかかるのが普通だ。
しかし、いざ食べるとなると10分もかからないこともしばしばだ。あまりにも時間対効果が見合っていない。
上記のように、その報われなさを考えればいくらでも話は出来る。

それでも相手が「おいしい」と言ってくれれば、黙っていても全てを食べきってくれれば、それだけで「作って良かったな」と思えるのである。
もっとたくさん食べてほしいと思うから、相手にうまくできた方を食べさせ、失敗したほうはこっそり自分が食べ、そして相手側によりたくさん食事を盛り付けたりする。
そしてまた、「あの人のために作ろう」と思えるわけだ。

何にせよ「つくる」ことの本質は、自己犠牲と利他性のなかにあるように思う。
こうした利他性が世界に広がっていけば、簡単に世界は幸せに包まれるはずなのだが、どうにもこうにも昨今の世の中は個人主義の勃興とともに、人のことはさておいて自分が――という人間が多くなっている。

これはこれで仕方ないよね、と受け入れるというのも時代の流れだが、自分が自分のために自分が食べるだけの食事を作って食べる、なんて話になったとき、果たしてそれは幸せと呼べるのか。

個人主義が勃興する中で人に対して「つくる」ことのある種のエネルギーの発露とあたたかな幸福の存在を忘れてはならない、と思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?