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創作と解離と

「強弁する時ひとは解離するから、自己主張した後は落ち込むのは当たり前」という言葉を見かけたんですが、自分の中ですごくしっくり来るものがありました。

クリエイターとしての自分は、制作経緯が難産な作品ほど、完成した後に「わあ、完成した…!」と一瞬舞い上がってから、急にスーパー自己否定タイムに落下する事が割とあるんです。

薄々理解してはいたので、その言葉を読んだ時すぐ腑に落ちました。

自分も創作をしてる時は自然と心が解離してるんだと思います。

作品に打ち込めば打ち込むほど、まるで自分の中の底なし虚無を抱くみたいに、自我からどんどんかけ離れてしまう感覚があります。

「まるでその作品に魂が宿って、向き合えば向き合うほど自分の指の隙間から逃げていくみたいだ」と表現した事もありますが、今思えばこれはまさに解離だと思います。

そしてどういうわけか、それは良い作品かどうかについての議論はさておいて、最終的にそういう作品の方が自分の子供であるかのように思えるし、愛せます。

完成した直後の落ち込み期間を乗り越えたら、という話です。


さて、以下具体的にどういう心情なのかという言語化を試みます。


先ず、自分の創作の原動力の話からお話しすると、それは「強い感情」だと思います。

日常生活で昇華しきれないほどの強い感情、プラスマイナス問わず。

憧憬、喪失感、恐怖、希死念慮、愛情。

これらの感情は普段の生活では全面的に表に開放する事はできず、多くの場合抑圧せざるを得ない。

ただ、下手な抑圧をかけると、その感情たちから反発を食らい、逆に膨張する事が殆どです。

だから、上手くコントロールするには、ある程度自分を抱きしめる事も必要ですが、直面したら心が耐え切れず壊れてしまう、又は自分の軸を見失ってしまうほどの手強い感情たちが相手なだけあって、何かのフィルター越しでないと冷静に向き合う事ができない場合が多いです。

そういう時に、自分に備えてある生命維持装置は創作しかないです。


少し、本題からずれますが、具体的な例としてあげるにはちょうどいい記録があったので挟みたいと思います。

これは、このノートを書いてる時点から一年と4カ月ぐらい前に書いたTRPGシナリオの話です。

あの時の自分は、ある出来事をきっかけに「いっその事殺された方がマシ」と思いながら生きていました。

その気持ちを表に出す事を良しとしない理性と、その気持ちを抱えながら足を引きずって死ねるまで生きていくには虚無になるしかないと思いながらも虚無になり切れない人間臭さとの間で板挟みになった自分を救うために、ペンを握る事にしました。

最初の発想なんかは単純で、「自己投影のNPCを作って、そのNPCをプレイヤーに殺してもらったら気持ち良さそうだな」でした。

ただ、書いていくうちに、案外抑圧されていた他の本心本音たちまで表にぞろぞろと出て来て、「執筆」というフィルター越しに「シナリオライターである自分」が「抑圧された自分たち」と向き合う事になり、誠実に彼らを作品に落とし込む事で彼らを解放する事に至りました。

その結果、最初の「誰かに殺してもらう」という目的の裏側にある「抑圧された自分の本音を解放する」という本当の目的にまで辿りついて、奇跡的に果たす事ができたなと今は思ってます。

更に、自分の物語が自分の物じゃなくなって、自分の世界観にないものを持ってる人の下に届いて、化けていく姿が見られるのは、TRPGという場です。

一歩間違えたら、例えばプレイヤーの人選に失敗したら、悪い方に転ぶ可能性は大いにあったと思いますが、幸い、結果的にはあの時の自分が一番必要とした治療に出会えたと思います。

7回まわしたうちに、否定的な意見を受けたり同じ温度感で返してもらえなかったりする事もありましたが、響く人に届ける事もできたので、自分は報われました。


さて、本題に戻すのですが、そのTRPGシナリオを書いた時でさえ、テストプレイをする前日に、「2カ月ぐらいをかけて身を削って書いた3.5万文字を全て消してしまいたい」という強い衝動と戦いました。

あの時の自分の精神状態が非常に宜しくなかったというのも相まって、「こんな自分の分身みたいな化け物を世に出して良いものか」「自分が本当に存在していいのかすら分からないというのに、こんな物を生み出して何の意味がある」などという自己否定的な感情たちが一気に沸き上がりました。

幸か不幸か、翌日には既にテストプレイの約束を友人としてありました。

人様の時間を抑えてもらっているという罪悪感だけがあの時暴走した感情たちを手懐けてくれたので、予め約束しておいて本当に良かったなと思ってます。
(荒療治なのでお勧めはできませんが、自己否定でもより大きな罪悪感には勝てないので。)


ちなみに、自己否定が発生したのはその時だけではないです。

まだ治療中の身ではありますが、あの時の自分に比べれば、今の自分の精神状態はもう大きく改善されてきています。

少なくとも、創作活動をちゃんと心の底から楽しめる程度には、回復できました。

それでも、です。

作品を完成させて世に出す前に、一瞬舞い上がった後は、「下手くそ」「こんな作品なんか」「承認欲求もいいところだ」みたいな声たちが一気に沸き上がる事があります。

ただ、今の自分は、「大丈夫、これは自動思考の暴走だ。そのうち過ぎ去る。」と理解できているので、割と冷静でいられます。

そして、それを乗り越えたら、世に出すかどうかはまた別の話ですが、「やっぱりこの作品が好きだ」「この作品を描いた過去の自分に感謝」と思えるようになってきて、自動思考ではなく、冷静に自分の作品を分析して反省点を見極めて向上する余地を見つける事ができるようになります。

不思議な事に、今は過去の作品たちを見返すと、「え!?この神作品を作ったの誰?自分だったの!?マジで??」という信じられない気持ちになる事もあったりします(笑)

自分がすごく頑張った作品の方が反応が薄かったり、比較的軽い気持ちで作った作品の方が反響があったりする時は、ちょっとモヤっとした事もありますが、自分が自分自身の作品の一番のファンでいられるうちは幸せなので、これからも解離したり統合したり頑張ったり頑張らなかったりしながら自分らしく創作活動を楽しんでいけそうです。

自己主張が激しい人間なもんでな!笑




ただの祈り。

どうか、創作をしている全ての人に、己の作品を愛せる日々が訪れますように。

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