【小】山中の椅子

 夏が終わりかけ、秋へ移ろう時分のことである。小雨が降った次の日にからっと晴れたので、近所の山へハイキングへ出かけようと思い立った。それほど高くない山なので、午前八時半ごろに登り始めて正午になるまでには頂上へ辿り着いた。そこから下山している道中にふと腰掛けて休みたくなり、手頃な石など何か座れるものはないかと山道を逸れて小径に入った。湿気った落ち葉を踏みしめながら行くと、少し開けて広場になっているところになぜかびろうど張りの古い椅子がみっつ三角の形に置いてある。
 丁度良いと思ってその内のひとつへ座って休んでいると、後から同じ小径をのそのそと歩いてやってくる人影が見えた。それは一人の老爺だった。彼は山登りにそぐわない青みがかった灰色のスーツ姿で、ジャケットの下にパリッと糊の効いた白色のシャツを着て派手な橙色のネクタイを締めていた。さらに頭上にはちょこんと、飾り羽がついた小粋な中折れ帽まで載せていた。
 広場までやってくると彼は、私の方を見向きもせずにいそいそと椅子へ腰掛けた。その腰掛け方が妙なのであった。普通に座るのではなく、なぜか反対向きに座り椅子の背もたれへ腹を押し付け脚をぶらぶらさせている。まるで、子どもがふざけてやるときのような座り方だ。
 私が怪訝な目で見ていると老爺はこちらに気づいたようで、ネクタイの結び目を緩めながら軽く会釈し話しかけてきた。
「これは失敬、長旅ですっかり疲れてしまってね、少し休ませてもらおうと。ところでおたくは、腹をつけなくていいんですか?私のことはお気になさらず、くつろいでくださってかまいませんので……」
「はあ……腹をですか?」
私はますます老爺を不審がったが、老爺はきょとんとするばかりだった。彼はさらに続けた。
「はあ。どんと疲れた。しかし暗くなる前に、なんとかここまでたどり着けて良かった。今夜はこのあたりで休んで、明朝には、南へ。明日は山を3つくらいは越えてしまいたいところです。」
私は老爺にそんな体力があるのかと驚いた。
「山を3つですか。」
老爺は微笑まじりに、
「ええ。季節が変わる前には必ず行かねばなりませんからね。これでも昔はもっと速かったんですが、歳を取ってしまって。お恥ずかしい限りです。」
と言った。


 それからかれこれ三十分、一時間、いやどれくらいの時間が経っただろうか。
 私は時間の感覚が曖昧になるほどにぼうっとしたまま、見知らぬ老爺とそこに座りきりだった。私と、逆向きの老爺と、空席の古い朱色の椅子。私はなぜか、根が生えたようにその場所へ落ち着いてしまって椅子から立ち上がれないのであった。
「……いいですかな、少し。」
突如として老爺が沈黙を破った。何をし出すのかと思えば、おもむろにハミングを始めた。妙に高い声だ。
〈うん、これは……どこかで聞いたことのある音だぞ。〉聴いているうちに段々と私はその声に懐かしさに似た親しみを感じた。ついに老爺は、朗らかに大声で歌を歌い始めた。
耳へ入ってきたのは、その老いた喉から発せられているとは思えない瑞々しい音色だった。溌剌とした黄色やオレンジ、ピンク色――さまざまな明るい色のびい玉たちがきらきらとかがやきながら楽しげにころころ転がっていく。そんな声色だ。
一曲歌い終えると老爺はすっきりとした表情をして立ち上がった。「では、そろそろ行きますかな。いい気分転換になりましたわい。あなたも良い旅を。」そう言ってすたすたと歩いて、林の中へ消えてしまった。
 私は我に返って椅子から立ち上がり、あわてて小径を戻って山道へ出た。そしてまた下山の道を辿ろうとしたが、一旦立ち止まった。それにしても珍しい、面白い体験をしたなと思ったのだ。
 私は、この広場に再びやって来たいと思い、小径の入り口にある若いナラの木の枝へ目印としてハンカチを巻き付けた。


 次の日、私は友人を連れて再び山へやって来た。面白い椅子があるんだ、と話しながら。目印のハンカチを見つけて再び小径へ入り、広場へ着くと私は自分の目を疑った。そこにはびろうど張りの椅子などなく、ただの切り株が3つあるだけだった。
「椅子なんてないじゃないか。」
私と友人は思わず顔を見合わせた。
 しかし私は切り株のひとつに、青みがかった灰色の羽根が落ちているのを見つけた。そして思い出した。あの歌声は故郷でよく聴いた、イソヒヨドリの鳴き声だ。そうか――彼は長い空の旅に疲れ、切り株に腹をつけて休んでいたのである。


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