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たとえ「例え」そのものが伝わらなくとも

 ビートたけしの小説『アナログ』を立ち読みで最初の数ページだけ読んだことがある。たしか会社員の男だったと思うのだけど、彼の横文字だらけで何を言っているのか判然としない長台詞が書き出しになっていた。いわゆる「意識高い系」と揶揄されるような人物の典型としての描写である。
 難しい言葉を無駄に使いたがる人は逆に頭が悪いという批判は、もはや一般論になって久しい。たしかにそれが付け焼き刃の知識だということは喋り方で伝わってしまうものだから、聴いているこちらが恥ずかしくなってしまう。特定の領域に明るくない人にも伝わるように噛み砕いて喋る能力というのは、誰にでもある程度求められて然るべきだろう。

 一方、相手の言っている内容はほとんど理解できないが、その本人が他意なくごく自然に喋っているのが分かる時というのがたまにある。そのような場合、僕は受け手である自らの見識を顧みるように心掛けている。単純に住む世界が違い過ぎて価値観がまるで合わない場合が多いが、一部の送り手からは何かしら色気のようなものを感じる。彼らには「もっと分かるように言ってくれ」とこちらに思わせるかわりに、「もっと勉強しないとな」と思わせるだけの説得力がある。
 すぐに思い浮かぶだけで二例挙げられる。お笑いコンビの東京ダイナマイトと、YouTubeチャンネルのマッスルグリルである。両者に共通するのは、多くの人には伝わらないであろう「例え」を多用することだ。前者はプロレスラー、後者はボディビルダーの引用が非常に多い。言うまでもなくどちらもニッチなジャンルである。どちらも非常に男臭い業界であることには今気付いた。まあそれはそれとして、分かりにくい物事を違う角度から伝えるために例え話をするのが基本だとするならば、より多くの人が共感できるような別の何かに例えるのがセオリーである。しかし、両者にはその発想があまりない。彼らは自分が面白いと感じることをそのまま発言しているだけだ。例え話をするというサービス精神はあるのだけれど、多くの人に分かってもらおうというある種の自己顕示欲が欠落しているのである。表舞台に出る立場に身を置きながら、無理して大衆に迎合しようとはしない姿勢。このようなやや矛盾しているように思える美学も、伝わる人には伝わるのである。たとえ「例え」そのものが伝わらなくとも。

 僕は東京ダイナマイトの『BAR』という三十分くらいあるコントを百回くらい見ている。特に爆笑するようなことはないのだけど、腹筋がジワジワと痛くなるような声にならない笑いがずっと続くのだ。半分くらいのボケは元ネタが分からなかったのだが、今では大体全て把握している。また、マッスルグリルが料理動画の狭間でたまに投稿するマニア向けの筋トレ動画も欠かさず見ている。都内にもなかなか置いていないような「鍛錬」というハードコアなメーカーの意味の分からないマシーンで、名前すら聞いたことのない部位の筋肉を鍛えながら嬉しそうに悲鳴を上げている様子を、僕は延々と見ていられる。

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