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読書

 習慣的に読書をするようになった高校生の頃は「世の中にはこんな考え方があるのか」という発見の連続だった。日常の会話の中では絶対に言語化されないような繊細な感情、あるいは言語化されるべきではない醜い感情を描いた作品に出会って「俺だけじゃなかったんだ」と救われることも多かった。僕はそんな体験を共有したくて読書を友人に勧めたりもした。しかし、そういった感情に本を通して一人で主体的に向き合おうとするのは少数派なのだということをやがて悟った。どうも世間の人は対面で喋ってコミュニケーションを取ることの方を好むらしい。勿論、それも重要である。何十年何百年も前に死んだ哲学者の小難しい長編小説を一ヶ月くらいかけて読むより、気心の知れた友人と下らない話をしながら二時間くらい飲む方がずっと気楽だ。

 大学生になって酒を飲めるようになった頃、スマートフォンを購入したことも一因となり、僕は読書から遠ざかった。それまで本を読んでいた時間はネットニュースやSNSを惰性で眺める時間にとって変わった。そして社会人になって営業職に就き、一日の大半を移動の電車内で過ごす日々が続いていた頃、僕はとある傾向に気がついた。「ネットニュースやSNSなんてうんざりだ」と主張するネットの記事やSNSの投稿が目につくようになったのである。映画の『トレインスポッティング2』でもそんなシーンがあった。ミニマリストなんかが台頭し始め、僕は世の中に新しい潮流が生まれた印象を受けた。もはや身動きが取れなかった。僕はネットニュースやSNSには辟易していたが、それを拒むことすらテンプレート化されているように感じたのだ。その反動なのか、原点回帰するように僕はまた読書をするようになっていた。そして、自分が抱くような悩みや世の中に対する疑問は、先人達に遥かに高度な次元で考え尽くされており、全て言語化されているのだと悟っていった。

 それでも読書を続けているうちに「いや、俺はそうは思わない」と感じる機会が増えてきた。どれだけ普遍的なテーマが題材でも世代間のギャップはいつでも付き纏うし、寸分違わず価値観が一致する他人なんてこの世には存在しないと考えるようになった。カート・ヴォネガットは『スローター・ハウス5』の中で「『カラマーゾフの兄弟』に大抵のことは書いてあるが現代ではもう不十分だ」というようなことを書いている。僕は自ら考えた事と他人に考えさせられた事とを、以前よりも注意して区別するようになった。スマートフォンに依存していた頃の僕は、ネット上に溢れるニュースとそのコメント欄の賛否両論を眺めることで、自分の意見なんてないのに達観したような気分になっていたからだ。語源や定義についてはよく知らないのだけど「悟り世代」という言葉は、情報だけ豊富なせいで思考停止している自覚がない若者をおそらく指すのだろう。僕は「ゆとり世代」なのだけど、自分が中年以上になった時、そんな風に下の世代を揶揄するような言葉を安易に使う人間にはなりたくないものである。

 僕は新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』を長らく所有している。上中下巻で合計三冊あるのだけど、中巻の真ん中辺りまで苦労して読んだ末に挫折して以来、本棚の肥しになって久しい。ロシア語の固有名詞なんて地名か人名かの区別もつかないのだ。上巻を読んでいる途中、僕はあまりの退屈さに耐えかね、別の本を同時進行で読んで中和しながら集中力を保とうと試みた。そして、上巻を読み終わる前に『コインロッカー・ベイビーズ』の上下巻を読み終えた。という訳で、僕は未だに世の中の大抵のことを分かっていない。

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