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『アながあくほド』というテキストについて2


この記事はhttps://note.com/0kdhyt/n/nb3673b5a7e45の続きです。

3.私を見つめるアナコンダって?

前回は俳優の仕事の比喩としての「電車」=〈身体〉と「飛行機」=〈役〉の関係性について書きました。この時、〈役〉に乗れずに〈身体〉をガタガタ言わしている4人を、場所ならざるところから穴が開くほど見つめている存在が、『アながあくほド』の中には繰り返し変奏されながらテキストに出てきます。「アナコンダ」です。リア王、ホレーシオ、鳥ゴーリン、ダビデ、キムタク、ニコラス・刑事、ローラ・ダーン、リンチ/カンチ、様々な名が言葉遊びによってパロディ化されて台詞中に登場しますが、このテキストにおいて「アナコンダ」は他の名とは全く別の位相に存在します。なぜなら、「アナコンダ」だけはテキストに埋め込まれながら、語り手である男1・男2・女1・女2を「見つめる」存在なのです。これは女2が「飛行機」を眺めるように、「ニコラスっぽい」人を見に行ったのとは、真逆の目線の向きです。そもそも「アナコンダ」という言葉自体が人名ではなく、そのパロディでもなく、ヘビの一種の名であり、捉え所がないが、一度聞いたら忘れられないような音の響きを持っています。アナコンダってナンナンダ?『アながあくほド』における「アナコンダ」はいわばジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』における「HCE」と「ALP」なのです。それはテキストのあらゆる場所に韻として顕れ、文を駆動させる〈力〉そのものです。「アナコンダ」が登場する箇所の文を見てみましょう。

女1「気に揉んで2日ほどツケコンダものがこちらを見つめるアナコンダになります。」「毎日を忙しく過ごす私をアナコンダはじっと見つめている。その眼差しを私はアナコンダにはない頸椎で受ける。」

女2「穴があったら入りたい。あった。穴に飛び込んだ。私を見つめるアナコンダ。土器土器。」

男1「アナコンダに割り込まれた哀れな被写体の裸婦。なんだかんだで練りこんでます。」「割り込んだアナコンダはじっと半裸の私を見つめる。」

男2「なぜか私の事をホレーシオと呼ぶ。私はホレーシオではない。友人でもない。乗り物は必ず音がする。聞こえる。アナコンダだけは例外だ。音もなく吹き散らす。木の葉の下で眠りゆく。私はもともと膝のお皿DJだった。アナコンダに出会う前は。」

なぜか『アながあくほド』の4人は「アナコンダ」に見つめられている事を感じながら、気に揉んだり、ドキドキして土器になったり、急に男から見つめられる半裸の裸婦(夫)になったりしてしまいます。男2に至っては膝のお皿DJだったのが「アナコンダ」に出会う事でDJではなくなったそうです。

ここまで4人の身体に影響を与え、半ばその存在を脅かすような〈力〉とは?私は〈表現〉だと思います。前回、山縣が生活身体にはex-pression=表現が存在しないという認識を持っているという話をしましたが、まさに「アナコンダ」とは生活身体が〈表現〉に気付き、別の存在へと自分の身体を賭けなければならない時に、場所ならざるところから見つめているのです。それは〈力〉としての〈表現〉であり、裏返せば〈表現者〉になるべく飛ばなければならない時に、常に付き纏う〈業〉なのです。

この〈力〉は手に入るようなものではありません。近付けず、ただもがいている〈私〉を見つめている。生活を送っていても、パーティーで踊っていても、常に〈表現者〉を自覚してしまった者に付き纏う眼なのです。それは恐ろしいと同時に、〈私〉を〈私じゃない私〉に作り変える契機になる驚異です。そして気付いてしまえば、〈業〉となってずっとこちらを見つめているのです。

実は『アながあくほド』は頭の壊れた4人がぺちゃくちゃ喋っているようで、こんなに恐ろしい事態になってなお〈表現者〉として舞台の上で自立しようとする、命懸けの闘いでもあるんです。山縣はそれくらい、〈表現〉ということに対して畏怖をもっている。俳優がそれに応えるのも大変なんですよ。周りの人間も。

ところで、これは蛇推の蛇足ですが、じゃあなんで「アナコンダ」?って考えた時に日本の原初蛇神信仰に思いを馳せることもできたりします。蛇はその独特の形態から他の自然的形態を真似するもの、驚異を顕す存在として崇められていたそうです。〆縄なんかに残ってますね。つまり、形態の類似によって何にでも変化できるもの。まさに俳優ですね。作者はそんなこと考えていないと思いますが、僕は山縣が文章書きとして意図せず土着的な感覚が表出するところを改めて感じて、びっくりしたりしていました。

ということで、以上「アナコンダ」の入り組んだ話でした〜。

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