『アながあくほド』というテキストについて
1.はじめに
2020年はオフィスマウンテンで『アながあくほド』という山縣太一が書いた戯曲を使い果たしました。11月に動画配信プラットフォームVimeoで顔面演劇バージョンを発表し、12月2・3日に横浜のSTスポットにてフルボディバージョンを上演、ライブ配信しました。私がこの戯曲を受け取ったのは自分の作品『時形図』の準備をしていた3月だったと思います。この記事では『アながあくほド』というテキストを顔面演劇バージョン、フルボディバージョンともに身体を以って上演に参加した私の、戯曲に対する解釈について書きます。
まずこのテキストは当初、オフィスマウンテンメンバーである俳優・小川敦子・中野志保実・横田僚平・飯塚大周に対して山縣によって半ばあて書きのように書かれたテキストです。結局、コロナ禍に伴う作品の制作進行、また各々のスケジュールの都合などから参加したのは飯塚のみとなりますが、何よりもこのテキストは俳優という特異な状況=舞台に自らを置く表現主体が使用するべくして書かれた言葉になっています。このことは山縣の過去作とも通じる問題意識となっていますが、『アながあくほド』においては俳優という存在をめぐる思考が高度に喩化された表現として顕れてきます。オフィスマウンテン処女作の『海底で履く靴には紐がない』(2015)の「海底」が表現の場である「舞台」、そこは作業の折り重なる熾烈な場であり、靴紐を結んでいる暇などない、というように読み解くならば、その後、『能を捨てよ体で生きる』(2018)で俳優と演出家の関係に対して、俳優側からの直接的な批判をいわばマニフェスト的に戯曲に持ち込んだのち、山縣は再び独自の言語実験と比喩表現に戻ってきたとも言えるでしょうか。具体的な箇所から『アながあくほド』を読んでいきたいと思います。なお、『アながあくほド』は一応、男1、男2、女1、女2の4人の登場人物からなる戯曲になっていますが、実質的には全くポリフォニックなテキストではなく、どこを切っても山縣太一の特異な言語表現と世界認識からなるテキストだと私は思います。男1、男2、女1、女2は言い換えれば俳優1、俳優2、俳優3、俳優4であり、どこを切っても俳優という表現主体をめぐるテキストなのです。
2.乗り物からは必ず音がする 「電車」としての身体、「飛行機」としての役
『アながあくほド』には台詞中に対比的な乗り物が二つ出てきます。地を走る「電車」と空を飛ぶ「飛行機」です。「電車」は男2の台詞中に現れ、「例えば電車が動く時の仕組みってわかる?電車が止まってまた動く。」「例えば電車が止まってまた動く。仕組みはわかりますか?お茶汲み程度の関わりならこのレベルには追いつけない。」というように再三、すでに動いているが動く仕組みのわからない乗り物として扱われています。一方、「飛行機」は女2の台詞において「飛行機に乗りたいな。まだ乗ったことがないんです。飛行機雲はちょくちょく見るけど。愚直に地を這ってきましたから。」「口の中を砂でいっぱいにして見上げた空に飛行機雲。消えない飛行機雲はいつも私の上。」というように乗ったことが未だないし、その存在痕しか確認できないが、いつも地上から見上げている乗り物として扱われています。
どうやら「電車」と「飛行機」は同じ乗り物だが、決定的に異なる存在として扱われています。では、山縣は乗り物の比喩を使って何を言おうとしているのか?先に言ってしまうと、私は「電車」=身体、「飛行機」=役なのだと捉えています。しかし『アながあくほド』の人間たちは「飛行機」としての役に乗ることができないし、「電車」としての身体もすでに動いているが、仕組みは曖昧です。
電車男である男2の台詞に示唆的な言葉が出てきます。「呼吸ひとつとっても頭二つ壊れても結局生活はトレースとインプット。つまりトレインです。」結局、電車(トレ−イン)は生活だというのです。トレースとインプット、そこにはアウトプットがない。つまり、これは表現主体ではない身体、日常の生活身体とでも呼べる様態です。他者からの情報の受容と、他者の真似によって生活身体は動いていると言うのです。これにはもちろん色々な反論があるでしょう。自由意志によって身体は動いている、他者との関わりによって身体は表現を生成している…などなど。しかし、山縣の特異的な世界認識は、はっきりと生活世界において自由意志的なアウトプット、ex-pression=表現はないと認識しています。生活世界に対立するのが舞台の上であり、日常に拮抗する場なのです。そこに立って初めて、「電車」の〈仕組み〉を問題にすることができる。
愚直に地を這う電車は「飛行機」を憧れのように見つめます。女2は「ニコラス」との逢瀬を「ローラ・ダーン」に見破られ、「飛行機」を見るために「米軍基地」に行こうとします。「飛行機も見れるし、ニコラスっぽい人も見れるし」。どうやらここで「飛行機」は様々な「役」を演じてきたアメリカの俳優の固有名と関わる問題として捉えられているようです。しかもここに出てくる固有名は、ニコラス・ケイジとローラ・ダーンというデヴィッド・リンチの映画『ワイルド・アット・ハート』に出てきたカップルの二人の俳優の名であり、いわば日本のアンダーグラウンドシーンの演劇界から見ればハリウッドの大俳優であり、その人自体がある種のキャラクター=役に近い存在です。強い固有名と〈役〉。彼らは〈役〉を演じながらも常に固有名を持った特権的身体として、〈役〉を乗りこなしているのです。
「飛行機」はいわば〈役〉そのものなのです。「電車」の身体を持った俳優は「飛行機」に乗ることができない。しかし、ここで山縣が真に言わんとしてることは、「電車」と「飛行機」どちらにもうまく乗れずにいることこそが俳優の仕事なのだということだと私は思います。〈役〉になることの不可能性の中で、自らの仕組みを観察し、生活身体を表現主体へと転化すること。
この時、乗り物を少しずらせば「練り物」になります。生活身体そのものでもなく役そのものでもなく、それらを身体で練り合わせ、「鳴り物」として言葉を発語する者。それが俳優という仕事です。遠くに聞こえる、「練り物」を売るおでん屋のリアカーの「鳴り物」の音…。近くには心臓の音。
まあ、『ワイルド・アット・ハート』でニコラス・ケイジとローラ・ダーンが乗って逃走していたのは電車でもなく飛行機でもなく、アメ車なんですけどね!次回は「アナコンダ」とはなんぞやについて書きます。
続く
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