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家族最終防衛線

堀越二郎、いや取り越し苦労とはよく言ったもので、
前回記事 であれだけ葛藤してたがいざ行ってみるととても良い結婚式だった。
自分は相変わらず家族との距離感を掴みかねているところはあるのだが、やっぱり家族は損得勘定なく自分を受け入れてくれるありがたい存在なのではないか、と思ったのである。

承認欲求と所属欲求のバランスについて最近よく考える。
自分が尊敬、否尊敬というとご本人があまりそういうのが好きじゃないかもしれないので、シンプルに考え方が好きで自分の生きる上での栄養を与えてもらっているオードリーの若林さんの著書でもその話を触れられており、折に触れて参考にさせていただいているのだが、世の中が承認欲求の方にコンパスが向きすぎではないかな、と考えることが多い。

所属欲求がゼニで買えるものでは(ほとんどの場合)ない以上、世の中が承認欲求を高めるように煽り散らかすのはやむを得ないのだが、それにしても所属欲求を軽視しすぎではないかと考えるのである。

一昔前の日本式の終身雇用制度は、一社を勤め上げるという所属欲求を満たす考え方を提示し、承認欲求は高度経済成長の中で結婚、マイホームという既定のレールを走れば満たされていく、というものだったように思う。
この制度には一つ問題点があり、定年など退職によりレールが切れた場合に会社という所属がなくなることにより、定年後に手持ち無沙汰になるということが往々にしてあったのだろう。

比較して現在の社会である。街を歩けば転職サイトの広告が、転職せよと迫ってくる。提示されるのはより良い給料、キャリアアップ、より良い就業環境(リモートワークなど)である。あたかも、百貨店に並んでいる商品のようにキラキラとした条件が並んでいる。一社を勤め上げるのは悪、とも言わんばかりの広告の数々である。

言うまでもなく、人間関係を築き上げるには時間がかかる。自分も転職をしているが、現在は地縁のないところに来たと言うこともあり、所属欲求が極端に欠落した状態と言える。
無論、
・新しい職場でも人間関係を(承認欲求の関与すなわち仕事の出来不出来など関係なく)構築できる
・地縁もあり、職場外で承認欲求は満たされている
のであれば転職は問題ないのだが、それがどちらも該当しない場合はちょっと待ったほうがいい、と思うのである。それほど、承認欲求に比べて所属欲求が軽視されている世の中なのではないか、と思うのである。

話を家族に戻すと、職場や周りの取り巻く人間関係が変わっても、最後の所属欲求の防衛線になるのが自分の場合は家族なのではないか、と感じたのである。

先述の若林さんの著書の表現を借りると、自分は自分という車の状態が常に気になり、ボンネットを開けて中身を確認しないとなかなか走り出せない。はっきり言ってめんどくさい人間である。
いちいち車の状態を家族に報告したりはしないが、自分がどんな車であっても受け入れてくれるのではないか、と思っている。

だからこそ、全ての方が家族に所属する安心感を抱けていないと言う辛い現実もあるかと思う。
そう考えると、親に改めて感謝するとともに、自分も承認欲求とは無縁の、同じ方向を向いて歩ける家族が欲しいな、と感じたのである。


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