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ただ「待つ」という無駄を愛する余裕を持つ自分を愛せ――2022年秋総集編

片足立ちの鳩

最近の休日は「休日」たる過ごし方をしている。統計学と向き合うことも、データサイエンスを究めることもしない。かと言って家に引きこもるでもない。多少天候が悪いくらいまでであれば、外を出歩くようにしている。

トーストと味噌汁

土曜は浅草まで出て朝食を食べる取り組みをした。やったことはなかったので。気になる人は「昔ながらの喫茶店」でググってみるといい。

バタートーストとコーヒー。小さなマグには味噌汁が入っている。

入店は朝9時。この時間の浅草は店も開く前だったが、この喫茶店は割と賑わっていた。コーヒーはバタートーストによく合う。そして味噌汁は旨い。
ふと、トーストを食べながら隣の初老の男性が横目に入る。僕のトーストが運ばれた直後に注文を済ませていたのだが、その男性は「待っている」。本を読むわけでも、スマホをいじるわけでもなく、ただ、壁を見て待っている。
言われてみれば僕は「待つ」という行動を、ここ何年もしていないかもしれない。「待っている間に他のことを済ませよう」と、合間合間に別の作業を挟み込み、これが「効率の良い」時間の使い方であると信じて疑わない。
結果として、何もする必要がない場合でも、スマホを取り出し、Twitterを見て精神を汚染することになる。
その男性を見て「何もしない」という行動を、ついぞ忘れかけているな、総反省したのであった。きっと僕より若い人は何かを成し遂げようと必死に僅かな時間を見つけて自己研鑽に勤しむだろうし、それは重要で貴重な経験だけど、今の僕にとって重要なのは、自分の生きているこの世界を十全に感じることなのかもしれない。

浅草寺

喫茶店をあとにした頃には浅草は活気づき始めている。感染症はほぼ過去のものとなったかのように外国人観光客がカメラを持ちながら歩く。そんな中「浅草にせっかく来たのだから浅草寺に行くか」という、なんでもない理由で浅草寺にお参りした。
もちろんおみくじも引いた。僕はおみくじに基づく啓示は割と信じている方で、大吉が出たら喜び、凶が出たら落ち込む。内容を詳細まで読み、特に学業と仕事に関する言及には心当たりがある限りは従う。あと病気も。信心強く祈れば叶う事が多いが。
さて、浅草寺のおみくじは番号が「1」だった。幸先がいい。これで凶でもナンバリングが大吉なので平均して吉だろ、と謎理論を展開したが、結果は大吉。平均して大吉である。謎理論で言えば。

結果は大吉。やったぜ。

「衆人皆仰望す」という点が最高である。そのように振る舞いたい。
その隣には浅草神社がある。自分の足の向かう先に神社があれば、都度手を合わせるのが習慣となっているので、その習慣に従いお参りをする。
小雨ではあったが、七五三のシーズンということもあり、華やかに着飾った子を連れて写真を撮る家族がいた。この時期であれば、大きな神社で七五三の家族に会う事自体は珍しいことではないが、運の良いことに、神前式の前撮りをする夫婦にも居合わせた。これはどういった神々の思し召しかとも思ったが、善い出来事に居合わせることは運がよく、ありがたいことであると受け取った。
(「お前も式を挙げよ」という思し召しであるかもしれない)
こうなったら浅草にあるゲームセンターと、バッティングセンターにも行くしかないと思い至り、その通りにはしごした。無事筋肉痛で肩と腰が痛い。

……「せっかく来たのだからあの場所もこの場所も行っておこう」というのも「効率の良い時間の使い方」を無意識に実践してしまおうとしている感じがするなと、今更思った。

時間を無駄にする勇気

成功する人は時間を無駄にしないらしいが、知ったことではない。
僕の人生の目的は「最短距離で成功すること」ではないので、遠回りするべきときに遠回りをしても良い。今がその時だとも思っている。だからデータ分析以外の物事に積極的に触れている。
noteで一番バズった記事がキャリア論である僕が「遠回り上等」とか言いだす時点で、思想に一貫性がない。知ったことではない。明日の僕がどういう価値観で生きているか、今の僕には予想ができない。

今の僕はなにかあるたびに焦ったり、動揺したりすることが多くなっていて、余裕の無さが目立つような気がしている。余裕は持ちたい。そのためには「こんなことをしている場合ではない」という、無駄を嫌う発想とうまく付き合う必要がある。
これが必要ない人であれば必要ないだろうが、僕の人生には、余裕と無駄が必要なので、意識して時間を無駄にしていこうと思う。
「○○する勇気」というタイトルの本が有名になりがちだが「時間を無駄にする勇気」という本もあってよいと思う。最初の一文は、こう書き出す。

現代人は人類史を顧みても「時間を無駄にする勇気のない臆病者」と言えるでしょう。

ぶっちゃけ僕は根拠の無いことを180ページ以上の分量書くことは出来ないと思うので、こんな本を書く日が来るとすればあと50年後くらいだろう。50年後は79歳。運が良ければ元気、普通ならボケていて、運が悪ければあの世にいるだろう。多分友人の半分には先立たれるだろうが、生きているなら元気にインターネットしていてほしい。ボケていたとしても百合姫とか読んでクソデカ感情をヘルパーに伝えてほしい。
もしすでに死んでいるとしたら、縁のある墓に納まって、3ヶ月位は惜しまれたい。欲を言えば「きぬいとと働いた人はその後活躍する人が多く、才能を見出して伸ばす能力が高かった」とか評されると都合がいい。
……その欲を満たすには、時間を無駄にする勇気とかほざいている場合ではないと思うが。

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