考えたいことをとりあえずストックするやつ(2022年12月22日)
暇を謳歌しているつもりが、暇を持て余している。
妻は基本的に出社して仕事をする職種であるから、僕が夢現の間に支度をして家を出る。仕事のない僕は二度寝をする。
大体1時間ほど二度寝を楽しんで、起きる。学生時代は昼間まで寝ていても平気だったのに、今は9時には体を起こさないと逆に体調が悪くなってしまう。
暇なので家事をする。自分用の朝食を作る。洗濯機を回しながら食器を洗い、クイックリンワイパーで床を拭く。ゴミをまとめて出し、コーヒーを淹れる。洗濯物を取り出して干す。このあたりで自分のPCの電源も入れる。特にやるべきことはない。
コードもほとんど書いていないが、しばらくはそういう日としている。気まぐれに何かを書くかもしれない。
気づけばゲームもしていない。ソシャゲはデイリーログインボーナスだけをこなし、スプラトゥーンもモンハンもやっていない。こうなると何をしているのか、となる。
読んでいる本
この記事で書いたウィトゲンシュタイン熱が再来しており、それを読んでいる。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」の一節が有名ではあるが、結局なぜそうしなければならないのか、僕はよく分かっていない。
岩波文庫の『論理哲学論考』(野矢茂樹訳)を持っていて、その解説を読みながら、第一にウィトゲンシュタインはこの『論理哲学論考』で「人間に考えられることの限界」を示そうとしているらしい、ということをとりあえず了解したところだ。
「考えられることの限界」を「考える」ことで得るには、「考えられること」と「考えられないこと」との間にある境界を、「考える」ことによって得られなければならないが、考えられないことは考えられない。
そこで、「言語」と「論理」によって表現できうるあらゆることが「考えられること」と同じであるとウィトゲンシュタインは捉えた。言語と論理で表現できないことは何かを明確にできること(=語りうること)で、沈黙しなければならない要素を炙り出せると考えたらしい。
この理解すら正しいか危うい。
Wikipedia知識で、ウィトゲンシュタインの思想には前期と後期があるらしいということは知っている。実際、手元には前期の集大成であるところの『論理哲学論考』と、後期~晩年の集大成である『哲学探究』(鬼界訳)がある。
一応『哲学探究』は『論理哲学論考』に対する批判と再構成の位置づけであるから、思索の前提には『論理哲学論考』がある。
どちらも難解だ。おそらくは並行して読むべきではないのかもしれない。一方で「『論理哲学論考』でこのように考察しているウィトゲンシュタインは『哲学探究』ではこのように議論を変えている」という比較検討ができるという点では、並行して読むことで全体像が見えるようになる期待はあるかもしれない。
ウィトゲンシュタインと自分
ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』を執筆し公にしたのは29歳から30歳にかけてのことであった。このときにウィトゲンシュタインは一時的に「哲学完全に理解した」と断じて、哲学から距離を取ることになる。
僕も今29歳で「仕事完全に理解した」と断じて仕事に対するリソースを少しへらす人生を歩もうと考えている。
大体10年くらいするとまた何か危機感をもって色々考えるのだろうと思う。40歳か。怖いな。
ところでウィトゲンシュタインは今日哲学者としてよく知られるが『論考』が公開された時期はアインシュタインやヒルベルト、ラッセルといった物理学・数学の分野における大きな進展から刺激を受けて、若手研究者間の交流が活発になった時期でもある。
『論理哲学論考』は確かに哲学書ではあるが、論理学の本でもあるので、ゲーデルなど、数理論理学・数学基礎論の領域とも無関係ではない。
何れにせよウィトゲンシュタインは後世の哲学の潮流に大きな影響を与える仕事をした点で、僕なんかよりも大きな功績がある。
実際『論理哲学論考』は文庫でも130ページ程度で、文量が多いわけではないのだが、この1冊で、哲学の領域で強い存在感を持っている。
20代でこんな難解なことを考察し続けて、言語化し、哲学の問題を解決しきったと断じる事ができる程度に考え抜いたというのは正しく天才であると思う。
僕は別に天才ではない。
一方で、『哲学探究』は分厚い。もともと2つの論文を1冊にしているから、ということもあるが、鬼界役はおそらく刃物なら受け止めてしまう程度の厚さがある。
ウィトゲンシュタインほどの貢献を、僕は世界にはしていない。
そういうことを思うと、正直焦ってしまう。
自分が世界に何も貢献していないということにひどく困惑し恐怖する。
でもよく考えると、歴史に名を刻む人間なんて本当にごくわずかで、
むしろ世界の大半の人間は、世界の歴史からは省略されるじゃん。残って会社の歴史とか、そういう部分的な要素だろう。
だとしたら別に何も怖くないのではないか……?
「歴史に名が残らない=無価値」という呪い
30歳までにどんな仕事を残したのか、ということは割と重要なのだろうと思う。
僕が残した仕事は決して大きなものでもないし、この仕事なしに世界が停滞するかと言えばそんなことはない。
というかこの時代、よほどの天才でなければ、その仕事なしに世界が停滞するようなことはないのだと思う。
多分、100年前も似たようなことを言っているやつがいるのではないか。
現代において、世界の歴史は、まさに「世界中で」共有されている。
その国の歴史に残れば「世界に名を残す」ことになった時代は終わっている。
「世界に名を残す」には正しくあらゆる国々で認知されるような仕事を成し遂げなければならなくなった。
この100年程度で、誰でも歴史に名を残せる機会が得られた。同時に「残すべき名」に対する競争は激化したのかもしれない。
100年前「名を残すべき人間」は明確に存在した。
ただの農民はただの農民であり、その名が刻まれることは稀だ。
「歴史に名を残そう」という考えすら湧くことはなかったかもしれない。一方で貴族やアカデミアの家庭に生まれた者は、多少の仕事で名を残しうる。
現代においては、少なくとも100年前と比較すれば、生まれがもたらす教育機会の差は小さくなっただろう。
もちろん、現代に閉じたスケールでは教育格差は存在する。
重要なのは「農民出身でも学術界に飛び込みうるし、そこで成果を上げれば、歴史に名を残す可能性が開かれている」ということ。
結果的に、「自分も歴史に名を残すような仕事をしたい」という希望を誰もが持ちうるようになった。
そしてこれが美しい夢にも、大きな野心にもなりうる反面、
身を滅ぼす呪いにも変質しうるようになった。
「歴史に残されるべき名」の領域は広がった。
戦場、学問、芸術、統治と、歴史の構成要素が限られていた時代から、「歴史に残すべき価値のある領域」は大きく広がった。
古代ギリシャではアスリートも名を残しただろうが、多分彼らはアスリートが本業ではなかったはず。
この拡大スピード自体は比較的ゆっくりとしたものか、
技術革新に比例したスピードだと思われる
「歴史に名を残したい」と望む人の人口比の増加は、歴史に残すべき価値のある領域の拡大スピードを大きく上回っている。
おそらく「歴史名鑑」は飽和している。
歴史名鑑があるとすれば、すでに刻む名前は飽和しているのだろう。お前も僕も、ここに刻まれる器ではないということである。
そもそも「何も成し遂げられないまま終わる人生」のほうが、人類において圧倒的な多数である。
「おそらく何も成し遂げられないまま自分は人生を終える」ということを受け入れることはとても怖い。
でも多分、この恐怖を受け入れるとある程度楽になると思う。
同時に「歴史に名を刻めない」ということは別に無価値ではない。
ただ名前が刻まれないだけで、あのときあの場所に畑を耕した人はいた。
ただ知られないだけで、そのシステムのそのコードを書いた人はいた。
あんまり名声を上げることに固執しないようにしようと思った。
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