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考えたいことをとりあえずストックするやつ(2022年12月21日)

仕事納めも終わったことだし、仕事に関連することがらから可能な限り頭を離すようにしている。Kindleを片手に、美術館や喫茶店の開拓をするのが何もない1週間の過ごし方だと思っている。

読書メータを再開する

  • 大学時代に学術書を記録するために使っていた読書メーターを少し再開してみることにした。

  • 家にはたらふく本があるが、どうやら「読んだ本」しか本棚機能に登録できないらしい。

    • となると家にある蔵書は「積読」扱いになるけど、全部積読として記録すると気が滅入るので、適宜整理しようと思う。

  • 過去に読んだと記録されている本でも、記憶になければ適宜削除するつもりだし、記憶に新しい本は逐一追加していく。

ピカソの時代に、スマートフォンは存在しない

  • 国立西洋美術館で展示されている『ピカソとその時代』を見てきた。

    • 同じ上野公園内にある、東京都美術館では『岡本太郎展』が開催されている。岡本太郎自身は『青春ピカソ』という著作を残しているほど、ピカソに強い影響を受けているし、実際にピカソの作品をこの本の中で批評している。

    • 岡本太郎自身、生前のピカソと話をした記録も残っていて、そこから「ピカソの偉業を超える」ことを作品の軸にしているらしかった。

    • もちろん、ピカソの「模倣」をもってピカソを超えるわけではなく、ピカソを何らかの意味で超越するような表現を目指す、ということではあるが。

  • 美術館の企画展には、スマートフォンを持っていく事がほとんどだった。

    • 今回は(あくまで多大なる自己責任のもと)スマートフォンをコインロッカーに預けた。

      • 基本的にはスマートフォンや財布は貴重品なので、
        手元に持っておいたほうが良い。僕は馬鹿なのでコインロッカーに預けた。

      • これをするなら自宅に置いて美術館へ行くか「絶対にスマホを触らない」という強い意志をもって臨むか、どちらかだろう。

  • この企画展は、珍しく撮影許可の降りている作品が多くあった。

    • 国立西洋美術館所蔵の作品はNGらしかったが、それ以外は基本的に撮影がOKだったように記憶している。

    • noteからも何人かの鑑賞録がサジェストされていた。

「ものすごい(美術作品の)カロリー摂取」というのはとても良くわかる。
岡本太郎展に行ったときは胸焼けがすごかった(これは岡本太郎の『力』に圧倒されたのだが)が、ピカソやその周辺の時代の画家の作品は必ずしもそうではなかった、というところまでとても良くわかる。

僕も美学・美術史に詳しい訳では無いので、ピカソの『座る女』は、この人と同じくらい「どこに女が……?」と探したと思う。なんなら近くのベンチに座り込んで10分ほど眺めた。結局見つからず、図録の解説を見ながらようやくそれらしい像が浮かぶようになった。1時間ほど眺め続ける必要があるらしい。
僕の詳しくなさを説明するなら、たとえば本企画展の作品にはクレーの『雄山羊』という作品がある。雄山羊の鼻の上に女性が座るような構図の作品であるが、それぞれがどのような概念を表現しているのかは、図録を見なければ分からなかった。「雄山羊は男性の持つ何らかの性質の比喩だろうが、なんだろうなあ」と思い悩んでいた。
この人は美学・美術史を知らなくても「一番好きな作品」を見つけて言葉にしているので、十分美術鑑賞をしていると思う。分析のし過ぎも美術鑑賞にはあまり向かないかもしれないので。

  • 上記の記事は共通して写真を撮っている。もちろん、こうしてnoteの記事にするのだから記事にして良いと思うし、写真撮影が許可されている上、それを(一定のガイドラインのもと)どのように使うも自由である。

    • 加えてこれが間違っている訳では無い。むしろ正しい。こうして見直すことで「あったあった」「これ僕も気になったわー」と思い返せるので、ありがたい。

  • その上で、僕はスマートフォンを使えない状況に自分を追い込んだ。
    写真に納めることも、その場でメモをすることも出来ない状況に追い込んだ。

    • 後付の理由だが、『ピカソとその時代』に、スマートフォンはなかったし、きっと図録を買うので、カメラで撮る必然性を持たなかったからである。

  • スマートフォンを使えない状況で美術鑑賞をすると、不思議と作品を見ることに集中することが出来た。

    • 平日で、比較的空いていたということも重なって、特に『座る女』の前で座ってしばらく構造を眺めたり、『遊ぶ子供』を眺めたりと、
      印象に残った作品は名前を覚える程度には鑑賞出来た。

    • 多分スマートフォンを持っていても、できる人はできたのかもしれないが、個人的には、これまでの美術鑑賞以上に記憶に鮮明に残った。

  • スマートフォンで何もかもができるので、あえてそれを手放して「何も出来ない」状況に自分を追い込むことで、自分が思っている以上の鑑賞ができるのは、良い収穫であった。

気に入った作品

  • 基本的にキュビスムの絵画は興味深く鑑賞した。

    • 国立西洋美術館にもジョルジュ・ブラックの『静物』は収蔵されていて、いつもは常設展で展示されている。

  • キュビスムは、描画する対象を2次元の空間に写す際に、複数の視点、時系列、抽象度を用いて対象を一度分解して再構築している。

    • 時間、空間のズレを1つの画面に収めつつ、全体として破綻しないような絶妙なバランスが生まれてくるように思う。

    • 「何が描かれているかわからない」から一歩進んで「ここに手がある」とかがわかるようになると、一層鑑賞が面白くなる。

  • 「わかりにくさ」が気に入った作品で言えば、上記でも話題に挙げた『座る女』だと思う。人の上半身をここまで分解して抽象化して再構築できるピカソの卓越した才覚と、少し見慣れてくるとなるほど人の顔、肩と椅子の区別がつくようになることの不思議さが大変興味深い。

  • 『緑色のマニキュアをつけたドラ・マール』は、本企画展の目玉であるが、こちらは比較的わかりやすい。モデルのどの部分を、どの視点から見たときに最もインスピレーションが高まったのか、という部分が理解できる。

  • 一番気に入ったのはピカソの『丘の上の集落』だった。

    • そもそも人物画や宗教画以上に、印象派以降の風景画が好きであることも背景にある。

      • 特にシスレーの作品は好き。西洋美術館にもいくつか所蔵されていたはず……。

      • 印象派は総じて面白いと思うし、宗教的なモチーフやテーマよりも自分が見てどう感じたかを優先的に考察して良いと勝手に思っているところからも、鑑賞する敷居の低さは感じる。

      • 宗教画はどうしても描かれている宗教のモチーフや文脈なしに、その作品のメッセージを受け取りづらい印象がある。

        • 最終的には「黙って心の声を聞け」ということにもなるので、
          思うがままに鑑賞してよいのだろうが。

    • だいぶ横道にそれた。図録によれば20世紀はじめにピカソが実際に滞在した集落の風景画であるようだが、複数の視点から見た集落・家々が絶妙なバランスで配置される。

    • 1つ1つを見れば立体的だが、全体で見ると統一的な遠近構造にはなっていない。それでありながら、ただ配置されているわけではなく、明確な美意識を持って描画されている。だから破綻しない。すごい。

noteにはいろいろな人のいろいろな感想がある。
個人的には、図録にもその場の解説にもある記述・説明ではなく、「結局、お前はどう感じたの?」ということを言語化している人はとても良いなあと感じる。僕もそうあろうと思うが、感想を書くのは本当に難しい。
ただ画像を適当に貼って「気になる人は行ってみよう!」という記事も見かける。お前はその瞬間そこにいたのに、絵画を見て特に感慨もなく「これ記事にしたらウケるかな?」って思いながら写真を撮っているのか?と述べたくなる。それでいいのか?と思う。いや、本人がそれで良いなら、多分良いのだろうが、僕であればひどく後悔するだろうと思うだけである。
……着実に老害に近づいている。


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