自己肯定感が低いのに自己愛の強い私を肯定したい


自己愛の強い人は、自己愛のないあるいは少ない人にとってはありがたい存在であるのかもしれない、と本で読んだ。

私は、自己愛の強い人間と自己肯定感の低い人間の組み合わせの方がしっくり来ると思った。

自己愛の強い人間は、他人に興味がありすぎない。自己肯定感の低い人間はそんなに自分のことを掘り下げられて見られたくない。
フェアな関係でなくとも、互いに都合のいい関係になることはできると思う。

自己愛があり、自己肯定感の低い人同士は互いに見たいところだけを見て、見たくないことから目を逸らすことができるからちょうどいいのかもしれない。

でも私はそれだけではないと思う。
ことの発端はおそらく自己愛の強い人間と自己肯定感の低い人間の組み合わせ、よくある流れだったのかもしれないが、互いに好奇心が強く、自己愛や自己肯定感を超えた興味を互いに持っていることが関係性をフェアにしているのではないだろうか。
興味を持つまでは長いが、人との関係性が一度深まれば家族のように思う私の性格が好きだ。
相手に同じことを求めるわけではないが、相手にも私を愛してもらうことができたらもちろん嬉しい。

自分が信じると選択した人に自分を愛している自分を肯定されるようで嬉しいのではないか

最近はそんなふうに思っている。
結局自己肯定感が低いが故に求めてしまうということなのではないか、一方的に必要と思っているだけで相手はそう思ってないのではないかと罪悪感を抱いたり、メンヘラを起こしたりすることがあるが、その時にフェアな関係であると言う事実があることで自分を保つことができている気がする。

だからこそ人に頼ることはあまり好きではない、自分で何かをやり遂げたということは確実な自信になり、自己肯定のために必要であるから。

あの時あの人に頼ったから、あの人が言ったから、といいことも悪いことも人のせいにできる、言い訳できる状況を作った方が圧倒的に楽。
でもこの楽をした経験は自己否定の餌にしかならない。せっかく自信を得ることのできるチャンスをその時楽するためだけに放棄してしまったことをのちに後悔することになると思う。(正直そういう経験はたくさんある)

ハマったら深く長い、信じることをやめられない性格は損することも多い。損切りという言葉をベースに今年の年始に目標を立てた。でもいまだに自分を信じたことを裏切りたくないと言う気持ちが生まれてしまう。
自己肯定感が低いが故に自信を持ってした選択を後の自分に否定されるのが怖いのだと思う。
否定されても大丈夫!なんて思えないし、批判に傷つきやすい性格(ESFP)だし、とか言ってできない言い訳を探している。(MBTI診断面白いからやってみてほしい)

目標を定期的に忘れた頃を狙って見返すことはとてもいい。
達成度もわかる、心情の変化や信じるものの変化もわかる、目標設定した時の自分の未熟さも、今の自分の未熟さもわかる。
年始の目標を見て、抽象的な目標に沿って生きることの難しさを感じた。

人間変わっていくことも変わらないこともあるけれど、一進一退だなとしみじみ思った。そんなに簡単に人は成長しない。
長所が伸びれば短所が際立つし、短所が伸びれば長所がおざなりになったりする。

それも人間らしくていい、それも個性でいい、とこんな時くらい自分を肯定していたい。

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