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二十歳の誕生日。




そうやって、震災から

あっという間に迎えた二十歳の誕生日。


いまでも忘れられない記憶だ。


二十歳の記念として、

両親から届いたプレゼント。

それは手紙と初めての梅酒ボトルだった。





タイミング的にも、

震災からのストレスで情緒不安定で心身ともに落ち着いてない時期だった。

だから余計に

プレゼントを受け取って、泣けた。

嬉しくて泣いた。





声を上げて泣くことは共同生活だから

止めたのだけど、言葉にするならば

声を押し殺して照れ隠ししながら…になる。






当時、生活していた大学の寮。


友達にも、たくさん慰めてもらった。


嬉しいね。

嬉しいね。


わたしまで泣けてくるよ。


そう、私を肯定してくれる友達のおかげで

更に泣いた。



それは、まるで生きていいんだよ。

大げさかもしれないけど、

そう言ってくれているような気がした。



 


 









春休みに震災があって、

すぐに地元へ駆けつけることが出来なかった。


震災から1ヶ月半。

急ピッチで進んだ復興により、

新幹線や高速バスとかが開通してから

初めて帰省した。



それは、

同時に震災後の地元を見つめること。


そして、

じいちゃんのお葬式に参列すること。


この二つのミッションがあった。









まさか同時進行になるとは、

今でも信じられない。


震災後の地元の変化、

じいちゃん。


受け止めきれるか自信もなく、

不安で不安で死にそうだった。

生きた心地はしない。



気を紛らわそうとしても、

いろんな事が頭から離れずにいた。


わたしは、

夜行バスのなかで

ひと目もはばからず一晩泣き続けた。



どうやって、泣き止んだらいいのか。

分からなくなった。


震災から、泣くことを忘れたかのように

人前では気丈に振る舞って、

泣くなんてことしてなかったのではないかと思う。



だから溢れ出した。










携帯電話をにぎり、

当時私を支えてくれた片思いの相手に

連絡しまくって、

いろんな言葉をかけてもらった。


そうやって泣き続けた。

めいっぱいに腫れた、私の目。


どれだけ痛々しかったか。

わからない。



この夜行バスは、地元では復興バス第一便。


だから、いつも一台なのに

四〜五台だった。





地元に帰省する。


たった、それだけのことなのに。




このバスは、

簡単に足元を掬われそうなほどに重くて、

人の魂すらも鉛のように重くて

たくさんの荷物を、存在しない誰かを運んでる気がした。


地元に思いを馳せ、

震災後はじめて帰省する。

そんな人たちで溢れていたと思う。


私は、自分のことで精一杯だったから

隣うしろ前に座る人たちが

どんな震災を経験したのか。

いまだにわからない。


ただ言えるのは、

無言の優しさが存在したことだ。


私が一晩泣き続けても

誰も注意せず、受け止めてくれた。

いや今の私だったなら、

どうしました?の一言をかけるだろうか。

簡単に泣いてるわけではないことぐらい、

震災のことを考えれば嫌でもわかる。





何かあったんだな、と。






と、同時に、

私のように、いやそれ以上に

悲惨な現状に直面している人もいたと思う。



悲しい。


悔しい。


なんでだよ。



俺には、

私には、

何もなんで何も出来ねぇんだよ。





夜行バスのなかでは、

そんな人のたくさん数え切れないほど

育まれた魂があったと思う。

 














そして、

迎えた朝。


腫れ上がった目で

カーテンごしに地元をみて、

何も言えなかった。


決して、無の感情じゃない。



言葉にできない、とはまさにこのこと。








夜行バスの終着点に

家族の姿を見つけたときに、

また泣いた。


今度は全身が震えてしまった。


手も震えて、

足も震えて、

泣きっぱなしで目の前は何も見えなかった。


精一杯、

やっとの想いで呼吸を整えてから

バスを降りた。






すぐに、飛び込んできてくれた母。


わたしもハグされた。



だいじょうぶ。

大丈夫だからね。



よく来たね。

ありがとう。


一人で大変だっただろう。



小さい子をあやすように

トントン、トントンと。





震えた手を握ってくれた。


どこにも、誰にもぶつけられない想いを

抱え込んで、

必死だった1ヶ月半。


被災地から離れて過ごした1ヶ月半。




 

震災のとき、

地元にいなくて、ごめんなさい。


いまだに何も出来なくて、ごめんなさい。




当時吐けなかった、贖罪だ。



 







震災後、はじめての帰省は

あっという間の一週間だった。


じいちゃんの葬式もあった。


正直断片的にしか覚えてない。





また大学のある地に戻ったとき

被災地出身の大学生に戻ってしまった。


それは孤独でしかなかった。



まわりには被災地出身の大学生なんて

かきわけないと居ないほどだったから。



だから、まわりの視線が痛くて

怖くて、時々恐怖だった。


そんなふうにしか振る舞っていられず、

どんどん心は壊れていった。








そして、誕生日まで、

生きる意味さえ見失いかけていった。



だから両親からの誕生日プレゼントを貰ったことが嬉しくて、幸せで、幸せすぎて泣いた。



わたしは生きていて良いんだ。


それを肯定してあげられた。












両親からの手紙には、

生まれてきてくれてありがとう。

あなたが産声をあげた、

その瞬間から私はお母さんになれた。

ありがとう。










こんなに記憶として残っていながら、

あまりの嬉しさに興奮して

はっきりとした文章や言葉は

正直言って覚えていない。 


でも、ニュアンスとしては

こんな感じだったと思う。





これらは、確実に、

私の生きる覚悟を突き動かしてくれた。


そのスイッチを押してくれたのだ。


なんのために頑張るのか。

なんのために生きるのか。


なんのために大学に来ているのか。


それを思い出させてくれた。






私は幸せになっていいの?



卑屈になって、

疑問に感じていた時期でもあったから

声を上げて、わんわんと泣いた。










スイッチを押せたからといって、

すぐに元気100%になったかといえば

そうではない。


選択肢を増やしただけ、だ。




でも確実に、二十歳を迎えた。

それは紛れもない事実だ。




そんな私の二十歳の誕生日。