積み木

弟の積み木を崩したとき、僕はおしっこを漏らした。

僕には2歳下の弟がいる。彼は幼い頃から根気強い性格で、プラモデルやパズルなどの細かい作業を得意とした。
僕はというと驚くほど何をしても続かない。
通っていた水泳教室は踵が飛び出るおかしな平泳ぎを必死に治そうとする先生がいたので辞めてしまったし、仲の良かった小田島くんが入るというので入部したバレー部は、部室が臭かったので一週間で退部した。
部活をしていないならと母親に無理矢理応募させられたスーパーのアルバイトは、パートのおばさんが僕にだけ廃棄処分の惣菜を分けてくれないことを知って辞めた。
しかし、そういった僕の性分に対して全く引け目は無い。
何故ならこの世の全てにおいて「不変」であることは不可能だからだ。
何時間も遊んだゲームはいつのまにかやらなくなってしまうし、積み上げてきたキャリアは誰かの妬みで一気に崩れるかもしれない。大切に育てた娘が16歳で妊娠することだって不思議じゃないんだ。
その全ては執着心から生まれた個々への依存であり、本当は必要ないはずの感情を人々は自分で生み出してしまっている。
僕にはそういった感情や蓄積はいらない。
常に身軽で何にも執着しない人生だからこそ楽しめることがあると僕は知っているからだ。
それには人々の「執着」や「蓄積」が何よりも大切なので、僕に必要のない「それ」を僕は否定しない。
強いて言うならば、僕は「それ」に酷く執着しているのだ。

あれは僕の弟が2歳のときだった。
当時弟は動物型にくりぬかれた木の積み木で遊ぶことが大好きだった。
その積み木は、重ね方によっては全ての動物を使い積み重ねることができる。
対象年齢が高い玩具ではないが、遊び方によってはかなり難易度が上がるように思う。
弟はその積み木で遊ぶようになってからその根気強い性分が顔を見せ始めていた。
弟が真剣に積み木を重ねているとき、僕はリビングでチョコパイを食べながらレンタルビデオ店で借りてきたアニメを見ていた。
何の気なしにふと弟の方に目をやると、丁度最後のひとつを重ねるところだった。
(僕がいまアレを崩したら・・・)
そう思うと同時に僕は積み木に突っ込んでいた。
散らばる木の動物たち、目をまんまるくして驚いている弟。
(あ、おしっこ漏らしちゃった)

なんの関係もない僕が、弟の最高の瞬間とそのために費やしてきた時間を奪う。
それは一瞬のことだった。
懸けてきた時間を嘲笑うように呆気ないその一瞬に僕は取り憑かれてしまった。

それからというもの、僕は沢山の人の色々な積み木を崩していった。
幼稚園で彩奈ちゃんが一生懸命描いていたうさぎさんの絵をクレヨンでぐしゃぐしゃに塗り潰したり、小学2年生の頃仲良くしていた広樹くんの家に遊びに行ったとき、ラスボスの直前にセーブしてあったゲームデータをリセットした。
高校3年生のとき、クラスメイトの石塚君が1年生の頃から片思いしていた春日さんに卒業式の後告白すると言っていたので、石塚くんには現在彼女が2人いて、その相談を僕が受けているといった内容の返信メールを卒業式前日に春日さんに誤送信しておいた。
そんな感じで学生時代は小さな積み木をちょこちょこ崩していった。
しかし大学を中退し、親戚のコネで就職してからというもの同じ日々の繰り返しである。
流石に35歳にもなると発作的に同期の制作したプレゼン資料を消去したり、上司の愛娘をその辺のホームレスにレイプさせたりなどということは妄想の中だけに止めておくようになっていた。
思春期に毎日自慰をしていたことを、三十路の友人が「若かったなあ」と懐かしむように。
僕にとって他人の積み木を壊すことを「懐かしい」で済ませるようになっていたある日、会社の飲み会で婚活の話になった。
そんなことに全く興味はなかったけれど、三十過ぎて独身彼女なしの僕は、いい塩梅に酔っている彼らにとって完全に酒の肴だった。
先輩の吉村さんにスマホを奪われ、適当に無料のの婚活アプリに登録させられた。
「無料で結婚相手と出会える時代なんだぞ!」
なあ、安西?と赤ら顔でバシバシ背中を叩かれる。
僕のスマホは同期の泉に回されていた。
「安西透、男性、19・・・何年生まれだ?」
とうとう個人情報まで他人に入力されている。
(まあいいや、帰ったら消せばいい)
そうこうしているうちに飲み会はお開きになった。
二次会に行かない人はそれぞれ路線別に分かれることになり、僕は山川さんという事務の女性と帰ることになった。
「あの、安西さんは婚活なさるんですか?」
「しませんよ!酔っ払いたちに勝手に登録させられただけです」
「そうですか、よかった~」
山川さんは何故か安堵すると僕にラインの交換を求めた。
別に断る理由もないので了承すると、彼女は年甲斐も無く「やったー!」とたるんだ肉を弾ませて飛びあがった。
「安西さんは何駅?」
何故かタメ口になっている。
以前聞いた話では彼女の最寄り駅は僕の最寄り駅とは全く反対だった気がする。
なんとなく嫌な予感がした僕は一応自分の最寄り駅の2駅前の駅を言うことにした。
「▽○駅ですけど」
「え!?私も私もー!」
(そんなわけないだろう!)
同じ駅なのに近所で鉢合っていないのは不自然だ、今まで電車で同じだったことも無い。
何より前に住んでいたという駅と違うじゃないか。
渋々改札に入ると彼女は残高不足で止められた。
「定期更新するのを忘れていたみたい!」
行きでは無く帰りに定期を更新する人間の不自然さといったらない。
律儀に待たなくてもいいというのに僕はこの不気味なおばさんの一部始終を冷めた目で見学していた。
こうして僕は山川さんの張りのない肉割れした太ももをぐいぐい押し付けられながら、最寄り駅より2駅も前で降り、うちまで付いて来ようとする彼女をなんとか言いくるめ、駅から40分かけて家に帰った。
それからというもの、山川さんと言う39歳の小太りな女性はまるで一度枕を共にしたかのような馴れ馴れしさと図々しさで僕に付き纏った。
確かに僕はいかにも付け入りやすそうな地味な顔だし、押しに弱そうな猫背をしているけれど、それにしたって彼女と僕はお似合いだなんだと冷やかし彼女のラブコールを助長するような社内の流れは気に喰わない。
彼らは僕にとっておきの爆弾があることを知らないのだ。
そのとき僕は閃いた。
(山川さんの人生という積み木を滅茶苦茶に崩してやる)
すぐさま山川さんを食事に誘った。
二つ返事で了解した山川さんとその日のうちにセックスをし、その週の日曜日には結婚の話を滲ませた。
凄まじい速さで進んでいく僕たちの関係に、山川さんは目をキラキラさせながら実家の両親を早く安心させたいとか、結婚したときのために自分が飼っている猫と仲良くなって欲しいなどといった話を僕に聞かせた。
あまりにも展開が早く進みすぎると壊したときの快感が薄れてしまう。
僕は少しスピードを落とすために小さな衝突を起こしたり、仲直りしたり、旅行の計画を立てたりしてゆっくりと愛が育まれていくよう努めた。
しかしそれは簡単なことじゃ無かった。
山川恭子という女はとにかく虚言が多く、とんでもなく自意識が過剰なのだ。
彼女は料理ができないのに、惣菜を皿に盛って「頑張っちゃった」などと嘯く。
それをオブラートに包みながら指摘すると、図星だというのに自分は被害者だと激怒し僕を罵倒する。
道で通りすがる男が彼女の年齢にそぐわないピンクの膝丈スカートにぎょっとしたのを見て「やだ、あの人私の足ばっか見てる」などと宣う。
昔は痩せていてモデルをしていたことがあるというので写真を見せてと言うと「証拠がないと信じられないの?」と顔を真っ赤にして激昂した。
正直彼女が行き遅れていることになんの疑問も感じないし、本来であれば付き合うこともないようなタイプの女性だけれど、僕はなんとか彼女の宥め方、煽て方をマスターし最高の婚約者であるよう努力した。
こうして半年間交際を続けた僕たちはいよいよお互いのことを両親に紹介することになった。
彼女は持ち前の図々しさでちょこちょこ僕の家族をイラつかせ、僕は穏やかな旦那様然として彼女の両親に挨拶した。
「大事な一人娘が変な奴を連れて来たらどうしようかと心配していたんだよ、君が真面目そうで安心した」
「恭子は一人っ子だから随分わがままでしょう?結婚してからも甘やかしてくれそうな旦那さんでよかったわ」
「ちょっと、二人ともやめてよ子供じゃないんだから」
僕の髪を薄くしたらこんな感じなんじゃないかと思うほどに自分と雰囲気の似ている穏やかそうな父と、恭子から凶暴さや図太さなど負の要素を抜き取ったような優しそうな母親を見ると少し胸が痛んだ。
(彼女を崩したら、この両親も悲しむことになるのか)
人生を崩すというのは彼女に付随する人、環境、全てを崩すということなのだ。
(ああ、楽しみで仕方がない。もう少し、もう少し積み木を重ねてからだ・・・)
その方が崩したときの快感も一入だろう。
その日僕たちは恭子の実家の離れで抱き合った。
白豚のように喘ぐ彼女を抱くとき僕はいつも目を瞑り記憶しているAVを脳裏に思い描く。
そうしたってなかなか勃たせることが難しいというのに彼女は僕に勃たないなら病院に行けと言う。
自分のせいだなんて微塵も思ったりしないのだ。つくづく羨ましい性格である。
かなり苦労したが環境が変わったおかげでどうにか今夜の僕は勤めを果たすことができた。
まだ5月の半ばだというのに汗みずくになった彼女は大の字で布団に寝転がる。
あと少ししたら僕に婚約解消を言い渡されるなんて露ほども思っていない呑気な様子に、僕は早く積み木を崩したいと逸る気持ちを抑えるのに必死だった。
(それにしても結婚の挨拶までするなんて、僕もなかなか根気強いじゃないか)
自分で自分に感心していると、彼女が僕の胸に凭れてきた。
湿った皮膚と張り付く髪がなんとも気色悪いけれど、婚約者である僕はその背中に腕を回さなければならない。
「ねえ、そろそろ話さなくちゃいけないことがあるんだけど」
ざわり。背筋が凍る。
いったい何を言う気なんだ。
なんでお前がそれを。

それは僕の台詞だ_

「話って、なに?」
喉が渇いて張り付く。回した腕から血の気が引いていき、指先が氷みたいになった。
1秒が1分にも10分にも感じる。
時がゆっくりゆっくり過ぎているような感覚の中、彼女は口を開いた。


「私、妊娠しているの」


僕が根気よく重ねていったのは、
彼女では無く僕の積み木だったのだ。


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