凡人の仮面 第一章「見よう見まね」
こんにちは、愛は猫の眼です。この作品と出会っていただき、また僕と出会っていただき、ありがとうございます。こちらの作品は、2024年度創作大賞「オールカテゴリ部門」への、応募作品(小説)になります。
審査員の皆様、並びに創作大賞を運営してくださっている皆様に、心からの感謝いたします。このような場を設けていただいていること、当たり前だと思わずに、これからも邁進してまいります。改めて、いつもありがとうございます。楽しんでいただけたら幸いです。
欺瞞。憎しみ。愛と絶望。そのどれにも当てはまらない感情が僕の心を蠢いている。世間では努力は報われないと言っているが、それは本当なのだろうか。自分が自分でいられることの限界知ったとき、人間はどうなってしまうのだろう。青空の下で、一匹の猫が欠伸をしている。もう一度あの世界を見ることができたなら、もっともっと深く井戸に眠っていられたのだろうか
自分ではどうしようもない悲しみに人生を締めくくられたとき、人間はどういう行動をとるのだろう。消し忘れている悲しみと同じ君の歩幅で、歩きたいのに。行かないでと言っても無駄なのだと叫んでいる人生でいいのだろうか。言わないで思い出すほうがよっぽど楽なんじゃないかと思いながら、その思いすらも超えて、人生というものは進んでいく。すり替わることがない人生のはずなのに、最もたる原子からその存在を疑って、何事もなかったかのように日々を歩むのだ。いっそのこともう人生すらも投げ出してしまおうかと思っていた矢先に、運命というものは突然と動き出す。どうかお願いだから笑える人生を描けるように、この筆を取ることにしよう。何事もなかった人生の哀しみが泣いた、そんな朝日で溶けた水溜りのような物語を、ここに綴ろう。
僕は今木穂高(いまきほだか)。大学二年生で、錦秋(きんしゅう)大学で絵を描いている。何の変哲もない、ただの人間でありながら、この腐った世界で自分のことを愛している。自分ではわからないが、最もたる天才と呼ばれる人種の一員であるらしい。世間からは、やれ八朔だの新人類だの、五月蠅い。僕は僕でしかなくて、君は君でしかないのだ。もうこれ以上干渉しないでほしいのだ。
錦秋は、日本で屈指の芸術大学だ。僕は油絵学科に所属している。小さいころから自分のことを表現することが好きで、もうかれこれずっと描いている。ああ言えばこう言う世界で、絵というものは世間を騙させるいい道具に過ぎない。自分の主張を曲げないで、歴然とした差を見せつけるにはいい手段だ。錦秋では、ただの凡人が集まっているわけではない。日本全国から才能が集まってきて、鬼才と呼ばれるものもいる。数多くの偉人を輩出してきたこの学校で、俺はただただ絵を描いている。そんな寂しい考え方をするなんて野蛮だと言われるかもしれないが、もっともっと自分のことを世間は考えたほうがいい。利益主義の集団に、自分の人生を投下することなんて、それほど死んだほうがましだと言うことだと思うのだ。
今は錦秋で最大規模の展示会の最終日。数多くのメディアが来ている中、僕の作品は、注目を浴びているのは言うまでもない。抽象画で学生時代から有名になったから、将来は安泰だと思っている。何も苦労のない、ただ自分の好きなことをしていればそれでいいこの人生に、汚点なんて必要ないのだ。
「あの、」
「はい、なんですか?」
「この絵って、なんていう種類ですか?」
「あ~、これは油絵ですね。僕は抽象画がメインなので、分かりにくくてすみません。」
「あ、いや、なんていうか、この絵を見た時に、切ない気持ちになったっていうか。なんか寂しい感じがしたというか。」
「そうですか。感じ方は人それぞれなので、自由に感じてもらって結構ですよ。」
「あ、はい。その、あの。」
「なんですか?」
「なんで、絵を描こうと思ったんですか。この絵。」
「なんで、かあ。強いて言うなら、自分のことを知ってほしいから、ですかね。」
その時僕はずっとずっと孤独だった。神経質な窓から、歌にすればなんでも良いと思っている音楽が流れている。狭いワンルームで、単身者専用の古びたアパートにどうせ住んでいるのだろう。この部屋に残っているものなんて何にもないのに、手書きの歌詞カードだけ置いてあるのだろうな。
そうやって愛に迎合して、どんなことでも詩にして、叫んでいればいいと思っている文学者が、僕は嫌いだ。何でも言葉にすればいいと思っている、ちゃんと目を見て言わないで、陰に隠れて世間を舐めているその姿勢に、甚だ疑問を抱いている。何でもいいと言って、自分の意見すら押し殺して、提出先に、編集者に迎合して、陰になるのだ。濃い陰になった後は、詠えなくなってもう諦めるしかないのだろう。
どんなことでも許される世界なんかないが、油絵だけは違うと思っている。何でもかんでも詰め込んで、抽象的で心に突き刺さればそれでいい。感じるものがなんであれ、とりあえず見れば心が通じ合う。そんな簡単な世界で、気づいたら有名になっていた。言うまでも無く世間からは一般論では語れないぐらい、絵にしてしまえば何でもいいのだ。
少女を押しのけて、黒服の男性が目の前に入ってきた。
「ちょっとすみません、今木先生!今回の作品の見どころはどんなところですか。」
「メディアの質疑応答は、公表会で行いますので、それまではいらっしゃっても何も答えられません。」
「そこを何とか、何でもいいので一言!」
「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、そんな世間を表現しました。」
「ありがとうございます!」
腐った世界では、適当な言葉を吐いておけば何とかなる。思い出すだけでそこにないとわかっている。世間なんて結局は利益主義で、自分の本質なんか見てくれない。自分のことなんて誰にも分ってもらえない。ただこの人生で遊んでいるだけだ。戻れないのではない、離れなのではない、喜びも驚きもないこの人生で、遊んでいるだけだ。
歩いても、歩いても、人生は続いていくから、いっそのことここで終わって、この作品が凡才の歴史に刻まれればいいと思っている。これ以上世界に貢献しても何も意味がないと感じる19歳の秋。うっかりと音符が転がっている歌なのか、僕の絵も結局は。足りない日々を補う秋。夜に壊した熱に浮かされて、常夜灯が眠気を覚ます。
凡才、天才。何の違いがあるのだろうか。僕の姿に君の面影を映した。僕の未来が一つになればいいが、運命の分岐点とはこういう何気ないときにやってくるのだ。今日から一つの未来になるとしたら、笑顔一つを持って旅に出ればいい。あたりを見渡しても、どうやら僕は独りらしい。場違いなほど美しいこの世界を表現できるのが絵なのだ。
大事なものを見つけて、愛を重んじればいいと思っている。そうやっていれば世界から褒められて、安心して生きていけるのではないかと思っているんだ。この世界が言うには絶対なんてないけど、内緒で生きる勇気をくれるのだ。
「あの、」
「なんですか、さっきもいらっしゃいましたね。」
「私、あなたの絵、嫌いです。」
「はい?」
「だから、嫌いです、あなたの絵。」
「はあ。どうぞご勝手に。」
「でも、あなたのことは気になります。」
「はあ。」
「また来ます。錦秋を来年受験しようと思ってる高校二年の花田です。ではまた。」
「はあ。」
傲慢さを塗り替えるのは、純粋さか。未来を塗り替えるのは過去か。凡人を超えるのは天才か、それとも。
「あ~、今日もなんだか描けねえや。」
「下川にしては珍しいな、描けないことがあるなんて。」
「ん~最近なんか調子が悪くてな、なんだかこう、分からなくなってきて、自分のスタイルが。今日の陽をなんて表現していいかわからなくなるのと同じで、透明性に欠けると言うか、自分のことがあんまり分かっていないんだろうな。」
「まああるよなあ。俺もなんだか描けないときあるし、それでも描いているとなんだか自分が知らんかった感情とかに出会えるから好きなんだけどな、そういう気分って。」
「穂高みたいになんでも絵に消化できるわけじゃないからなあ。なんとなくで描いて行ければいいんだけど、それだと俺はなんだかボヤっとするんだよなあ。」
「あ~。」
話半分で聞いている世間話。薄暗い街灯のライトで寂しさを静かに温めてくれるのだ。言葉の影を受け入れて自分のことにできれば一番いいのだが、相変わらず下川の言っていることには同意できない。下川だって、色々なギャラリーから展示協賛を頼まれるぐらいの人物なのに、なんだか抜けているというか、いい意味で人間らしいと言うか、何というか。
俺にはわからない世界だなと思いながら、電柱の灰色に手をかける。最もたる理由で友達になったわけではないが、油絵学科で、同期で、なんとなく話も合って意気投合したから一緒にいるだけだ。別に最たる理由もないまま一緒にいることが、かえって楽なのかもしれない。
自分らしくいることについて深く考えるときもあるが、それでもなお自分が分からなくなる時のほうが多い。いっそのこと投げ出してやりたいこの人生でも、もっともっと愛を感じて生きていければいいのだが、そういうわけにもいかないらしい。
「すみません、油絵学科のアトリエはどこですか。」
「ごめんね~、今日はオープンキャンパスやってないのよ~。だから、アトリエを見ることはできないの。」
「そうでしたか、では油絵学科の今木穂高さんにこう伝えてください。あなたの絵を嫌いと言った花田舞がここに来た、と。いつか会う日まであなたのことを考えながら生きていきます、と。」
「はあ。わかりました。伝えておきます。」
信じることができる存在がいるのなら、人間は孤独にならないのだろうか。愛する存在がそばに居れば、心の距離なんて関係ないのだろうか。花田は確かに僕に罵詈雑言を放って帰っていったが、それは何だったのだろうか。否定することも肯定することもなかったような顔をしていたが、それでも踏み込んでいってきたのは何だったのだろうか。自分が分からないと言っていた下川の話を片隅に、僕は花田のことを考えていた。印象強く記憶に残るとは、この人生の中では大きな役割で、自分が愛されないと知っている天使などいない。
秋の味覚を食べるころには、気分が好転して絵が描けるようになっているだろう。近所迷惑な色味が汗ばんでいるシャツに染み渡る。偶然と言って片付けられるほど、運命は甘くない。引き寄せられて通り過ぎた世界では、もっともっと自分を主張するべきなのだろうか。
「というわけでして。」
「げっ、すみません、ご迷惑をおかけして。」
「あ~いや、全然。私はいいんですけど、今木さんの絵が嫌いってわざわざここまで言いに来るのって、なんか変ですね。」
「そうですね、だいぶ変な人だなって思いました。錦秋祭に来てたんですよ、最後のほうにちょっとだけ来て、あなたの絵が嫌いですって言って帰っていきました。」
「ま~そういう子もいますよね。自分に自信がないから、他人を蹴落とすことしか考えていないんじゃないですか。」
「そうなんですかねえ。俺には理解できない話だ。」
「でも、ずっとあなたのことを想い続けています、なんて言っていたから、気になってはいるんでしょうね。」
「そういえば、この前も最後に気になってると言われましたわ。」
「はあ、不思議な子。」
愛すべき愛が偏っている。世界には愛が溢れすぎている。そんなに気合を入れて生きる必要なんてないのに、通り過ぎてしまう世間を眺めて、その世間から認められることが人生だと勘違いして、みんな道を外しているのだ。僕には全く理解できないから、全速力でただ一等賞を目指して走るしかないのだ。
こう見えても、油絵には並大抵じゃない情熱を注いでいる。すぐに立ち上がらないとチャンスが逃げていくように、自分がもっともっと成長できれば幸せにできる人も多いのではないかと思って。刹那に消えるぐらいなら努力なんて無駄だと思っていたが、どうせ死ぬなら怠らないぐらい誠実な人生にしたいとは思っている。
でも、どうせ付いてきてくれる人なんていないのだ。僕が出す本気をせいぜい取り上げることしかできないメディア。一緒に走れる人間なんてこれっぽっちもいないのだから、結局は人生なんて孤独なのだ、独りで頑張るしかないんだ。過ぎ去る今を過去と定義すれば、それは美しくなるのだろうか。日々の憂いは忙しさに溶けてなくなっていくが、それでもなお感じることを忘れないでいたいのだ。孤独でもいいから、この油絵だけは取り上げないでほしいと思っているのだ。
どうして僕たちは思い通りの人生を歩めないのだろう。自由を手に入れるために不自由を味わうことを強制しているのは自分じゃないか。自分は人生の歯止めをかけていることすらも知らないで、愛とか希望とかを語っている暇があったら、ひたすらに手を動かせばいいのに。想いを口にできになら、口がついている意味なんでないのだと。
「そいえば、今木君は、もう来年の錦秋際の展示のこと、考えてたりするの?」
「いや、まだですね。今描きたい絵があるので、それが終わったら本格的に考えようと思ってます。でも、自分が自分じゃなくなる感じが最近して、だんだんと見せたいものが何なのか分からなくなってきたんですよね。それでも愛して自分の油絵を信じて描いているんですけど、そろそろ才能にも限界が来ているのかなって。挙句の果てに高校生からまで馬鹿にされる有様、なんて滑稽な自分なんだと思ってますよ。そういう指宿さんは、なんかあるんですか。自分から言ってくるってことは、自分は準備できているってことなんじゃないんですか。」
「そんなんじゃないんですけど、単純に将来の道を約束されたあなたみたいな画家が、今どこを目指して、何を見て歩いているのかが気になっただけ。」
「将来を約束された、ねえ。」
「今木君は、何でもかんでも自分のことを理解していないですよね。最もたる理由を付けていつも、のらりくらりと質問を躱していく。もっともっと自分のことを愛すればいいのに。」
「そんなに愛想悪いすか、俺。」
「うん、今木君の絵からは想像できないぐらい、愛想は悪いね。」
「はあ、なんだか最近、とやかく言われる日が多いなあ。」
「とやかく?」
「あ、なんでもないです。じゃ、アトリエ戻ります。」
大きな愛が自分のことを掠める時代が来るとしたら、この一瞬だけが続いていればいい。もっともっと攻めた人生を歩いていけばいいと思っていたが、どうやらそうもいかないのが人生らしい。急いでいるから追い越せばいいと思っていたが、無駄に歩幅を合わせないといけないこの世界がもどかしい。
体中に感じている温もりに身を投げていればよかった小さいころは、とてもじゃないけど祈ることなんてできなかった。陳腐なラブソングを聞いて、満足できていた時は今頃、忘れ去られていることを嘆いているのだろうか。
人はなぜこんなにも苦しまなければいけないのだろう。重なった手を閉ざすようにいつか見た夕日に音楽を靡かせてみる。ああ言えばこう言う、こう言えばああいう、そんな関係性が、世界とは心地がいい気がしているのだ。見せない悲しみが自分の言うことを閉ざしている。
「なんだった?」
「この前の高校生が錦秋に来たらしい、わざわざ俺に会いに。あいにく指宿先輩が門前払い。指宿先輩に言われたわ、なんかお前は愛想が悪いって。最近ほんとさんざんなんだよなあ。」
「穂高は愛想悪いっつーか、初対面とか女性に対して目つきが悪いんだよな。なんだか見下しているというか、俺はすごいだろ的な風を感じる瞬間は確かにある。毎回ひやひやしながら隣に居るときは多いと思うわ。」
「そうかあ。これって直したほうがいいのかな。」
「いや~、別にいいんじゃねえの。思い出を鑑みてわざわざ未来を酷使する必要はないと言うか、そんなもんじゃ足りないぐらいに実力で見せられるだろ、穂高は。」
「うーん、まあ確かに。」
「そういうこと。お前みたいな天才は、ただひたすらにその才能を見せ続ければいいっしょ。少しでも涙が出そうになったら俺がいるんだし、もっともっと愛を感じて生きていればいいんじゃね。」
「でた、下川の愛。気持ちわりい、逃げろ~。」
どうしてなのだろう、気づくのが遅すぎたのかな。別に自分のことを天才だと思ったことはないが、もっともっと才能がある奴なんて沢山いるし、俺なんかが注目を浴びているのが不思議でしょうがない。また笑って過ごしていればいいと思っていても、すぐに顔が曇ってしまう人生の、何が楽しいのだろうか。才能があったから画家を目指しているわけじゃない、俺はただ絵が好きだから油絵を描いているだけだ。才能があると勝手に定義されて、100点から減点される人生、本当は嫌だと思っている。それでも大体98点ぐらいの作品は作れるから、何とかなってしまう自分も憎い。
弱さが痛いわけじゃない、昨日の自分に負けるのが怖いだけなのだ。ただ俺は勝手に何もしないでも油絵のアイデアと筆が走って、見る見るうちに神の御業の如く作品が完成していくと思われているが、全くそうではない。隣に居る下川は分かると思うが、俺じゃなきゃ耐えられないぐらい葛藤の嵐にいつも身を投じているのだ。
とてもいい日があったとする。その日が忘れられない一日だったとする。それでも忘れてしまうのが人間だとする。入り浸った散らかった部屋すらも夕日で染め上げられるぐらい、心が綺麗なのが人生なのだろうか。踊っているだけで成立するほど、この人生が甘くないことぐらい、知っているつもりだった。
「ただいま。」
「おかえり~、今日も遅かったわね。ご飯できてるわよ。まだ食べてないでしょ?」
「うん、食べてない。」
「さ、座って食べちゃいなさい。それとも先にお風呂入る?」
「いや、ご飯でいいや。」
「いつになくなんだか疲れた顔してるわね。」
「そう?別に何もない、ただの変哲もない一日だったよ。」
「そ、それならいいの。錦秋大学から取材の依頼が来てたわよ、あとで机の上の封筒を確認してちょ。あなた、ほんとこの年齢なのにいろんなところから引っ張りだこですごいわね。もはや私の子じゃないんじゃないかって思うぐらいよ。」
「言い過ぎ。後で見てみるわ。多分断ると思うけどね。」
「なんで。あなたが求められているんだから、それに応えるのがあなたの仕事でしょ?それがあなたの生きる意味になるんだから。将来絵画だけで稼げなくなった時に役に立つんだから、今のうちから取材には慣れておいたほうがいいんじゃないの。」
「別に、絵で生きていけるし。」
「分からないじゃないそんなの。あなたね、人生は何が起こるかわからないんだから、いろんなことに備えておかないといけないの。それが生きるってことなの。錦秋に行かせたのも、あなたに絵の才能があったからってことは間違ないけど、それでも不安なの、私。」
「将来は頼らないから、安心して。」
「そういう不安じゃないの。もう。」
母親は極度の心配性で、安定志向だ。自分が少しでも道を逸れようとすると、これでもかというぐらい反対してくる。学費や雑費などはまだ親に出してもらっていたりするから無理に逆らえないと思いながら、いつも受け流して聞いているが、たまに限界がきてどうしようもないぐらい反抗するときがある。父親は僕が15歳の時に大腸がんで他界した。錦秋大学の造形学科卒の、彫刻家だった。家族そろって芸術家に人生を狂わされている母親を見るとなんだか切ない気持ちになる。それでも自分の母親だから幸せにしないといけないなという気持ちもありつつ、自分の人生を邪魔されたくないと言う気持ちもありつつ、難しい。いっそのこと縁を切ってしまえばいいなんてことは考えるときもあったが、何とかつながっているのはそういうことなのだろう。
未完成でも発表する作品があったとする。それでも完成と称して世界に発する勇気が僕にはまだない。愛を覚えたとしても、世間知らずな自分だから、世界がどうなったって関係ないのだ。夢の途中であなたに出会っても、気づかないで通り過ぎてしまうのだろうな。太陽のような温かさがあったとして、幸せの天才になれるかどうかなんてわからない。いつの間にか忘れてしまった人間の愛し方。油絵と向き合い続けているから、その辺の同級生とは話すらも合わなくなってきている。
何度も受話器を取ってみても、どこにも繋がらない。目いっぱい笑ってみても、何度忘れようとしても、何度呼び掛けても何も出てこないのがオチなのだ。
寂しくないと言えばうそになるが、もっともっと自分自身を愛する方法を知りたかった。もっともっと自分の作品に対して自信を持つことができるようになりたかった。強いて言えば、世間からの評価なんていらないから、自分が自分の作品を好きになる感性を持ち合わせていたかった。僕は自分の作品が嫌いだ。だからこそ、花田に言われた言葉は、なんだか自分自身の分身を見ているかのような感覚に陥って。
それでも才能は嘘をつかない。油絵の才能は物心ついたときから開花していたからこそ、それを頼りに生きていけばいいと考えている。なんだか、何かに頼って生きていかなければいけないなんて、寂しい世界だなと思う。生活すること、生きていくことが前提にあって、それから先の人生や夢の話は後回し、そんな人生で何が楽しいのかと思いつつ、世間が居てくれるからこそ、自分のクリエイティブが成り立っていると思うと、何とも言えない感情になる。
「そういえば、あなたの知り合いにこの人っている?テレビに出てて、すごい水彩画を描く高校生がいるって言ってて、私もその作品を見たんだけど、すごい繊細で美しくて。」
「現役高校生、花田舞さんです!花田さんは小さいころから水彩画を描いていて、その溢れる才能に世界も驚いている、スーパー水彩画家です!それでは、花田さんにいろいろと聞いてみましょう。」
「あ、ほら、この子この子。」
「げ、知ってるわ、この子。錦秋際にも来てた。」
「あら、そうなのね、錦秋受験するのかしら。」
「するんじゃないかな、俺の絵も見ていったみたいだし。」
「花田さん、ずばりあなたの絵の強みは何ですか?花田さんの絵を見ていると、なんだか心が温かくなると言うか、そんな気分になるんです。その秘密を教えてください。」
「私はただ、好きだから描いているだけです。何かを伝えようとして描いているわけではないです。あなたたちも、群がっているんじゃなくて、自分の作品に集中したり、もっともっと自分と向き合うべきだと思います。世間からの評価なんて、ただの金が目的なんだから、私は迎合しないです。強いて言うなら、私が感じている世界への愛と、これからの未来への希望、世間への批判を描いています。」
「はあ~、さすが現役高校生!鋭い視点で世界をぶった切っている感じがいいですねえ。」
「穂高が最初にテレビに出たのって、いつだっけ。」
「高校二年生、この子と同じタイミングだった気がする。」
「そんときもあんた、この子と同じこと言ってなかったっけ?」
「なんかそんな気がする。言ってた気もする。」
「画家は尖っている人が多いのねえ。ほんと、嫌な世界だわあ。もっともっと柔らかくて分かりやすいものを書いてくれれば、それでいいのにねえ。」
分かりやすければ何でもいいのだろうか。自分がよければそれでいい世界線で、大衆に向けてわかりやすいものを描く必要など、あるのだろうか。抽象的で終わった絵画には価値がないのだろうか。誰にも注目されなかった絵画は、存在していないことになってしまうのだろうか。俺よりも愛を込めて描いた絵画があったとしたら、それはどうなるのだろうか。メディアという肩書で世間に何かを伝える仕事は、ある種責任が問われるのではないかと考えている。何でもかんでも目立っているから取り上げればいいと言うものでもないと思うのだ。
焦らないでゆっくり行こうとしても、こんな人間が出てきたらどうしても不安が募る。今まで注目は自分に集まっていたからこそ、あの頃のままに違う今を描いていることができない。何が見えるんだろうかと探っている時間なんかないのだと、天から言われているような気がした。翼さえあればと思っていた人間に対して、もっともっと飛べると言うのは罪なのだろうか。代わりに何を得たんだろう、自分だけが良いと思っていたこの世界でも、だんだんと才能の眼が出てきて、安全地帯が脅かされている気分になる。
才能のある人間だと自負している。今までの努力も、何も苦労はなかったし、描けば描くだけ評価されてきた。だからこそ不安なのだ。壁にぶち当たったことがないからこそ、初めて壁にぶち当たるときが怖い。自分が評価されなくなるのが怖い。ただただそんな感覚で、日々を生きていかなければならないのか。花田舞。どんな人間なのだろうか。意味のない自分の心に、一筋の闇が喫している。
花田の高校は、一ノ瀬北高校で、特段美術が秀でているわけでもない一般的な公立高校だ。美術推薦で私立高校に上がった自分からしたら、なんでそんなところに行くのだと疑問でしかないような高校だが、それでも何か理由があるのだろうか。あの時の眼からして、ただの高校生ではないことぐらいは分かる。メディアでも多く取り上げられている、しかも自分が受験したい大学の先輩に向かって、この絵が嫌いですと言って見せた。度胸がないと言ったら嘘になるが、普通に頭がおかしいだけの天才高校生なのかとも思いながら。突き動かしている鼓動が、一歩一歩前に進んでいても迷い続けているような気分に陥る。大きな声が聞こえてくるまで走ることを辞めない。止まない雨がないのと同じで、愛すると言うことの権化になり得る僕の絵で、もっともっと世界に貢献できればいい。目立つのは自分だけでいいのだ。自分だけよければそれで、それで。
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章