反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #2
村橋久成が北海道から鹿児島へ帰還したのは、1869年(明治2)7月下旬で、その後は、藩庁会計局出納方の出納奉行副役を務めています。いわゆる閑職でした。
また、ドイツでビール醸造業を習得した中川清兵衛が帰国するのは、箱館戦争が終了した6年後の1875年(明治8)8月のことです。
03.出会い
日露関係と黒田清隆
函館戦争後の1870年(明治3)5月、黒田清隆(1840~1900)は、北海道開拓次官に任命され樺太専務を命じられます。
その背景には、18世紀以降、千島・樺太の領有をめぐり日本とロシアの紛争が絶えず、ロシアは北海道を狙っていると思い、それを阻止するには産業を興し人口を増やす必要がある。
そこで政府は、1869年(明治2)7月、蝦夷地問題に対処する機関として「北海道開拓使」を設置、黒田清隆を次官にします。
樺太を視察した黒田は、帰京後、日露両国の国力の違いがある現状では、樺太を保持するのは不可能であり樺太を放棄して国家をあげて北海道の開拓に力を注ぎ、国を強靭にすべきであると述べて、多くの建議を行います。
その後、この黒田の考えは、「樺太千島交換条約」締結という方向に向かっていきます。
建議は、それまでの蝦夷地経営の方法を全て改め、機構整備や財政確保、開拓の基本方針をあげたもので、そのほとんどが順次、実施されていくことになります。その中には、開拓経験の豊かな外国人招聘もありました。
ケプロンの招聘
1871年(明治4)元旦、黒田は、お雇い外国人を求めてアメリカへ行きます。アメリカで黒田は、第18代グラント大統領(1822~1869)に会い開拓使顧問の推薦を依頼し、現職の農務省長官ホーレス・ケプロン(1804~1885)の招聘に成功します。
1871年(明治4)7月、ケプロンは、測量・土木・地質・鉱物・化学・医学の優れた技師4人を伴って来日します。
ケプロンは、北海道開拓について様々な提言、あるいは報告書を黒田に提出します。
そのケプロン構想には外国から輸入した植物を栽培したり、家畜を飼育したり、北海道に適するかどうかを試験する「東京官園」の開設がありました。
青山、赤坂、麻生の三カ所の旧大名屋敷跡で合わせて13万㎢の広さを持つ農業の発達奨励のための開拓使の指導機関でした。
北海道開拓使への出仕
1871年(明治4)11月、鹿児島から村橋久成が呼び出されます。
理由は、開拓使への出仕で、東京・芝の増上寺に置かれていた「東京出張所」での勤務でした。
ここで村橋に与えられたミッション(任務)は、外国人顧問のエドウイン・ダン(1848~1931)やルイス・ベーマー(1843~1896)らの協力を得ながら農業課付属の「東京官園」を管理することでした。留学経験を持つ村橋の語学力が買われたのでしょう。
1873年(明治6)12月、村橋は、新たに東京出張所の農業課直轄となった北海道・函館に近い七重村の開墾場に転任となります。
「七重村開墾場」は、1869年(明治2)2月、榎本武揚が箱館在住のドイツ人商人ガルトネルとの間で「蝦夷地七重村開墾条約」を締結し、99年間貸し付けたものです。箱館戦争終了後、これを知った新政府は、驚ろいて賠償金を支払い土地を取り戻します。
その後、移住者を入れて開墾しますが、なかなか進展しませんでした。
そこで、ここを東京出張所の所属にして「東京官園」から送られてきた家畜や農産物を北海道全域に広めるため農業試験所にすることにしたのです。
その役割を命ぜられたのが、村橋久成でした。
琴似屯田兵村
村橋には、実は、もう1つのミッションがありました。
それは、屯田兵創設に伴う、札幌周辺での「兵村地」の土地選定と測量・区画、そして兵屋の建設でした。
村橋が、出張命令で七重村から札幌へ来たのは、1874年(明治7)3月のことです。
彼は、屯田兵200戸一中隊の入植に適応する土地を調査し、札幌の西側の琴似に決定します。
入居するのは、福島や仙台、山形などの東北諸県から募集した者たち(私の遠縁もこの中の1人でした)で、戊辰戦争の体験者でした。
1875年(明治8)4月、札幌の「琴似屯田兵村」と七重村の「農業試験場」創設を終えた村橋は、再び、増上寺の「東京出張所」へ戻ります。
彼は、勧業主管で「東京農業試験場」と名称を改めた「東京官園」の管理責任者となったのです。
中川清兵衛の帰国
1875年(明治8)8月、中川清兵衛は、ドイツから10年ぶりに帰国します。
中川は、横浜港に着いたその足で、「東京出張所(開拓使)」を訪れます。青木周蔵がドイツから黒田清隆宛てに中川清兵衛をビール醸造技師として推薦する書簡を送っていました。すでに中川の就職先は決まっていたのです。
ドイツ帰りの中川を待ち受けていたのは、英国ロンドン大学留学生だった農業主管の村橋久成でした。
村橋は、中川清兵衛に自らの筆で「契約途中に退職することは、まかりならない」と書いた確認書を手渡します。
そこには、「雇われたからには、成功に向けて邁進せよ。一歩も後に引いてはならない」という村橋の激しい意気込みがあったといえます。
この時、村橋久成33歳、中川清兵衛28歳。
この日より2人は、ビール醸造産業の成功を目指し邁進していくことになります。
次回は、ビール醸造所開設までの背景や苦労などを二人を通じてご紹介します。
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