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北の海の航跡をたどる~『ナホトカ航路』 #1 さまざまな想いが交差する歴史ある航路

航路の概要

『ナホトカ航路』は、横浜港と旧ソ連のナホトカ港を繋いでいた航路です。

当時、日本からヨーロッパへ向かうルートに海路+鉄道でユーラシア大陸を横断するルート”ナホトカ航路~シベリア鉄道”があったのです。

その海路の出発地である横浜港からナホトカ港までを『ナホトカ航路』と呼びました。

ナホトカ港(1990年頃)

戦前は、日本各地(神戸、新潟、大阪、小樽、敦賀)からナホトカではなくウラジオストックへ航路が開設されていました。

大平洋戦争で航路は、一時、途絶えますが、日ソ共同宣言後の1961年(昭和36)からソ連極東船舶公社(FESCO/フェスコ)が横浜港とナホトカ港を連絡する定期航路を再開します。

私が入社した会社の親会社がFESCOの総代理店をしていた山下新日本汽船(実際の実務は子会社の東洋共同海運)でした。

この関係で1980年代後半にナホトカ航路と関りを持つことになります。

しかし、1991年(平成3)のソ連崩壊の翌年1992年(平成4)に航路は廃止されます。

しかし、横浜港から伏木港(富山県高岡市)と港を代えて新たに『ウラジオストック航路』が開設されます。

航路とナホトカの歴史

ナホトカ航路の歴史は、シベリア鉄道の歴史と密接にリンクしています。

ソ連時代の1936年(昭和11)、シベリア鉄道のウラジオストック~ナホトカ支線が完成し、1940年(昭和15)ナホトカ港の拡張工事が始まり、太平洋戦争の中断をへて、1946年(昭和21)に第一期工事が完了しました。

1950年(昭和25)に市制をひいて、港は、その後も拡張を続けます。

そして、ナホトカは、ソ連太平洋艦隊の拠点軍港都市として外国人の立ち入りを禁じたウラジオストックに代わり、ソ連の極東貿易拠点として発展していくのです。

1956年(昭和31)、日ソ共同宣言により日ソ間の国交が回復され、ナホトカ港/ボストーチヌィ港が日本との貿易港となり、1958年(昭和33)に敦賀港の間に貨物定期航路が再開され、ソ連極東船舶公社(FESCO)の客船が就航しました。

1967年(昭和42)には、日本国総領事館もナホトカに設置されます。

現在のナホトカは、ウラジオストックに次ぐ重要な都市で両市間の距離は180km。人口は、約14万3000人(2021年)。

1859年(安政6)ロシア艦「アメリカ」号が沿海地方の海岸で天然の良港を発見し、この湾を『ナホトカ』(ロシア語で掘り出しもの)と名付けたことに由来します。

港は、ナホトカ港とボストーチヌィ港に大別されます。ボストーチヌィ港は、現在、極東で最大の石炭積出港でもあります。

市内には、日本人墓地があり、2004年(平成16)6月から9月まで4回にわたり遺骨収集作業が行われ524柱が収集されています。

1972年(昭和47)に日本政府が建立した石碑を含む周辺一帯を日本人墓地の記念公園として整備されました。

日本人墓地(ナホトカ市)

また、ソ連により終戦時、約58万人がシベリアの約1200カ所の収容所へ抑留されることに。

人々は重労働や寒さ、飢えなどにより死亡しています。その数は、5万5000人とも6万人ともいわれています。

生き残った抑留者のほとんどは、ここナホトカから舞鶴へ、家族の待つ日本へ帰還したのです。

抑留者の一部は、このナホトカ港での港湾工事にも従事したといわれています。

私も1990年代前半にシベリア抑留者墓参の事前調査事業や添乗員として関わりました。
私にとってもナホトカは忘れられない街のひとつです。

戦後、ナホトカ航路は、ソ連や東欧諸国間と日本の往来や日本からヨーロッパへ向かう旅行者、特に若者の重要な移動手段でした。

同時に貨物も、この航路が利用されていました。

ナホトカ航路とシベリア鉄道を利用してモスクワへ(約9300km)向かう乗客は、本来、ウラジオストック発の1列車『ロシア号』に乗車する必要がありました。

しかし、当時、ウラジオストックは、軍港で外国人の立ち入りは許されていませんでした。

その為、外国人旅行者は、ナホトカで船を下り、チーホ・オケアンスカヤ駅からシベリア鉄道の支線を利用して主に3列車『ボストーク』号に乗車してシベリア鉄道本線に合流してハバロフスクへ行き、そこで数時間、ロシア号を待って、乗り換えてモスクワへ向かっていました。

チーホ・オケアンスカヤ(太平洋)駅(ナホトカ市)

就航船舶

運航企業であるソ連極東船舶公社(FESCO)は、当初、『バイカル』号、『ハバロフスク』号、『トルクメニア』号の三隻(同型船)を就航させます。

ハバロフスク号 KHABAROVSK

『ハバロフスク号』KHAVAROVSK
・竣工 1961年(昭和36)東ドイツで建造
・総トン数 4,772㌧
・全長 122.15m
・全幅 15.96m
・最高航海速力 17ノット
・乗客数 333人
・乗組員 97人
※1992年(平成4)中国で解体

私が、この航路が閉航される頃に携わることになりますが、その時は、既に3隻とも航路には就航していませんでした。

しかし、バイカル号とハバロフスク号の船名は記憶に残っていますが、トルクメニア号は全く覚えていません。しかし、資料には船名が明記されています。

この他にも『フェリックス・ジェルジンスキー』号などを記憶していて、停泊している同船に乗船したことは覚えています。おそらくはチャーターされて来航した際に見学したと思われます。

前述の3隻は、週1便、冬季は、月1~2便で運航されていて、横浜~ナホトカ間の所要時間は、約52時間。2泊3日の船旅でした。

航路は、横浜港(大桟橋)を午前11時に出港して東京湾に出て、太平洋を本州沿いに北上、津軽海峡を2日目の夜に通過して日本海を西へ横断してナホトカに3日目の16時に到着する航海でした。

「ハバロフスク」号をはじめとする、これらの客船は、当初、十数隻(同型船/イワン・フラスコクラス)が建造されたそうです。

その内の何隻がナホトカ航路で活躍したか定かではありませんが、チャーター船として来航した船も含めると下記の船名を資料などで確認できるます(ハバロフスク号以外)。

■『グリゴリー・オルジョニキーゼ』号 GRIGORIY ORDZHONIKIDZE
1963年(昭和38)6月、ソ連作家同盟の招待を受けて作家・安岡章太郎がその道中の模様を著書「ソビエト感情旅行」の中で記載している。横浜港から乗船したのは、グリゴリー・オルジョニキーゼ号。

グリゴリー・オルジョニキーゼ号 GRIGORIY ORDZHONIKIDZE

■『バイカル』号 BAIKAL
五木寛之の初期の作品で「青年は荒野を目指す」で主人公が横浜から乗船したのがバイカル号。

また、作家の佐藤優さんも高校の卒業旅行でバイカル号に乗船されています。

バイカル号 BAKAL

『トルクメニア』号TURKMENIA
1965年(昭和40)民間交流の幕開けとなる「ソ連観光団日本訪問」のチャーター船として乗客307名を乗せ、小樽港に入港しています。

トルクメニア号 TURKMENIA

『フェリックス・ジェルジンスキー』号 FELIKS DZERZHINKIJ
ジェルジンスキーは、ロシア革命直後の「チェーカー」(のちのKGB)の議長(長官)の名前を冠している。

フェリックス・ジェルジンスキー号 FELIKS DZERZHINSKIJ

横浜~香港~シンガポール航路?

当時、会社の先輩から聞いた話では、これらの船は夏に横浜~香港~シンガポール航路にも就航していたといいます。

その資料が手元にないので詳細は不明ですが、当時も今も乗船してみたいと思わせてくれる魅力的な船旅ルートであるのは間違いありません。

ナホトカ航路に携わる

私がナホトカ航路に携わるようになるのは、1980年代終わりのことです。

その時は、「ハバロフスク」号や「バイカル」号など5000㌧級クラスの船は既に退役しており、代わりに『コンスタンチン・チェルネンコ』号というソ連共産党書記長の名前を冠した大型貨客船が就航していました。

コンスタンチン・チェルネンコ号 KONSTANTIN CHERNENKO

その後、同船は、歴史の荒波の中で航海を行っていくと同時に、私もこの船と一緒に様々な体験をすることになります。

詳細については、#2 歴史の荒波を航海『コンスタンチン・チェルネンコ』号(1992年、船名をルーシ号へ変更)でご紹介します。

船内

#Episode 1 船内通訳

船内には、インツーリスト(ソ連国営旅行社)のスタッフが乗船していました。当然、日本語が堪能で日本人旅行者の通訳兼世話係といった立場でした。

彼らの多くは、ウラジオストック国立大学(現 極東連邦大学)の日本語・日本文化学科の卒業生が多かったといいます。

時々、”残念なスタッフ”もいたようで日本語が片言で意味をなさない場合もあったようです。

#Episode 2 船内での食事

船内で食事時間になるとロシア語、英語、日本語の三か国でアナウンスがあり、それを聞いた乗客は船内レストランへ向かいます。テーブルは自由席。

料理は、可愛らしいロシア人ウエイトレスが運んできてくれました。時々、怪しい日本料理も提供されていました。

ロシアの正式な食事(正餐)は、昼食です。ロシア料理のフルコース。スープ、前菜、温かい料理(肉か魚)、デザートという内容。

当時は、黒パンの上に少量のキャビアがのった前菜やビーツのサラダ、スープはボルシチ、メインは、ビーフストロガノフ、ステーキなど。デザートは日本では決して見ることが出来ない原色のゼリーやケーキ、そして紅茶(チャイ)かインスタントコーヒーの豪華な食事でした。

キャビアとイクラ

#Episode 3 船内イベント

夕食後は、船内の小さなサロンで生バンド演奏やダンスパーティーが行われたり、運航会社専属のプロの舞踊団によるロシア民謡や民族舞踊も披露されました。

#Episode 4 船内BAR

小さなバーもあり、ビールやウオッカなども飲むことができました。毎夜、乗船客や船員との"飲み会"が行われていました。

#Episode 5 船内プール

甲板には、日本の銭湯の湯船位の大きさの小さなプールがあり、子どもが水遊びをしたり、ごくまれにロシア人女性(大半がレストランのウエイトレス)が泳いでいると、なぜか?プールの周囲には、多くの男性が群がっていました。

のちの大型化された客船ルーシ号のプールでも同じ光景が見られました。その中の1人がカメラを持った私でした(あくまで資料撮影が目的?)

船内プール(コンスタンチン・チェルネンコ号)

#Episode 6 若者の海外渡航

当時の海外旅行(ヨーロッパ方面)では、ナホトカ航路を利用する若者が多かったと書きました。

1965年(昭和40)当時、日本からローマへ行くのに南回りの航空機で行くと料金は、約24万円。

ナホトカ航路+シベリア鉄道でモスクワ経由した場合、旅行日数は、掛かりますが約11万円と半額以下でした。時間的余裕がたっぷりあった学生には、こちらの方がリーズナブルであったのは当たり前でした。

しかし、1980年代になると旅行雑誌「ABロード」などが登場したり、格安航空券が手配できるようになります。

この時、再び、若者の海外旅行ブームが起きます。

この頃になると航空機利用の方が安くなり、ナホトカ航路+シベリア鉄道でヨーロッパへ行く片道料金で航空機だと往復できる時代になってきていました。

航路廃止

1980年代、横浜港の定期旅客航路は、ソ連の極東船舶公社(FESCO)が運航するナホトカ航路のみでした。

しかし、1991年(平成3)12月のソ連邦崩壊をうけ、翌1992年(平成4)に廃止となります。


参考・引用文献
・Wikipedia ナホトカ航路


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