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“看護師さん、大空を駆ける“〜北海道初の女性飛行家・米山イヨ


プロローグ

2022年(令和4)12月に北海道初の男性飛行家・高橋信夫について発信しました。彼と私の出身地は、同じ北海道枝幸町ということで興味を持ち、彼をリサーチしている中で北海道初の女性飛行家・米山イヨの名を知り、彼女に関心を抱きました。少しずつ資料を読み進めるうちに彼女が稚内出身であることが分かりました。稚内は私にとって小・中・高校時代を過ごした思い出の地でもあり、私は、彼女について、もっと知りたくなりました。また、過去に外国の航空会社に関わる仕事にも従事していたので、いまでも飛行機には、とても興味を持っていたことも発信する動機になったのです。

そこで、今回は、黎明期の飛行家たちの大空への憧れ、そして苦悩や挫折などを稚内出身の米山イヨを通じて、ご紹介します。

合わせて昨年発信した「“大空へ命をかけて“〜北海道初の男性飛行家〜高橋信夫」もお読みください。

北海道での米山イヨ

1907年(明治40)1月29日、のちに北海道初の女性飛行家となる米山イヨが日本最北端の街・稚内で誕生します。
イヨの居住場所については、同市郊外の坂の下地区と北浜通り12丁目(現 宝来4丁目付近?)の2説があります(もしかすると、父親が坂の下地区に漁場を持っていて、幼い頃は漁場の近くに住み、父親が亡くなると市街地の北浜通りに住んでいた可能性もあります)。

イヨは、米山家の女4人、男2人の兄妹の三女として生まれています。
父親は、大きな漁場を持つ経営者でしたが、イヨが9歳の時に亡くなります。
その後、母親が苦労して6人の子供たちを育てたといいます。
そんな母親が愚痴ひとつこぼさず働き続けている姿を見ているうちに一日でも早く独立して母親を少しでも楽にしてあげたいと考えていたそうです。

イヨは、稚内尋常高等小学校尋常科6年を卒業すると、札幌市大通りにあった「斉藤医院」の手伝いをしながら夜間学校へ通って勉強し、5年足らずで看護師と助産師の資格をとり、そのまま同病院で働いていました。

稚内尋常高等小学校

北海道初の飛行場〜音更飛行場

1925年(大正14)、北海道で初めてとなる飛行場が完成します。十勝国音更村(現 音更町)の「音更(おとふけ)飛行場」がそれです。この飛行場開場式の際に「飛び初め式」が行われることになりました。

その日、千葉県津田沼の「東亜飛行専門学校」教頭・永田重治一等飛行機操縦士が「アプロ式504K型複葉機(北斗2号)」で公開飛行を行い人々の大歓迎を受けます。
永田は、長野県出身で1921年(大正10)9月、航空局陸軍依託第一期操縦生の課程を終了したばかりの24歳、新進気鋭の青年飛行家でした。

音更飛行場の説明版と標柱

■音更飛行場(開場 1925年/大正15年5月13日)
北海道で最初の飛行場(現在の新千歳空港の前身である千歳飛行場が開場されるのは、音更飛行場開場の約半年後のこと)。
1917年(大正6)8月、帯広でアメリカ人飛行士アード・スミスの飛行を見学した鉄道・士幌線敷設工事で来ていた主任技師 加藤甚之烝氏を中心に青年たちの飛行場建設の熱意が高まります。
当時の児玉航空局長から「十勝とは驚いたが自分も北海道の航空事業に考えるところもあるので、応援するから大いにやってみるよう」と認められ実現することになったのです。
飛行場の規模は、長さ130mx幅20mほどです。その後、残念ながら1929年(昭和4)には閉鎖されています。

音更飛行場の開場式が終わると、札幌で航空思想普及の目的で東亜飛行場専門学校主催、北海タイムス社(現 北海道新聞社)後援で宣伝飛行が行われます。

この情報を知った米山イヨは、どうにかして自分も一度、飛行機に乗ってみたいと、とても強い欲求にかられ永田操縦士に直接会って、心の中の熱い想いを必死に訴えました。その結果、特別に許可がおります。
このようにしてイヨが、10分足らずの札幌上空の遊覧飛行を体験したのは、1925年(大正14)7月6日のことでした。

この短い飛行経験は、イヨを夢心地にし、彼女に飛行家になることが自身の天職だと思わせることになります。イヨ、18歳と5ヶ月の時です。

東亜飛行専門学校

飛行体験の後、イヨは、川辺校長や永田操縦士に入学への懇願の手紙を送ったり、押しかけて行って口説いたりして、ようやく川辺校長から入学承諾の回答を得ることができたのです。何という行動力なのでしょうか。

飛行体験から3ヶ月後の1925年(大正14)11月、イヨは、「東亜飛行専門学校」に入学します。

学校では、1922年(大正11)3月、伊藤音次郎門下の「兵藤精(ただす)」が三等飛行操縦士になっているのを知ります。彼女は、日本の“女性飛行家第一号“です。イヨが東亜飛行専門学校に入学した時、兵藤の姿は、既にありませんでしたが。。。

日本の女性飛行家第一号の兵頭精

■東亜飛行専門学校(千葉県津田沼)
東亜飛行専門学校は、伊藤音次郎が伊藤飛行機研究所練習部として経営していたものを、1924年(大正13)11月、不況のため、株式会社を解散して伊藤飛行機製作所と改め、伊藤音次郎の個人経営に切り替え、同時に練習部を分離して「東亜飛行専門学校」と命名して後輩の川辺佐見を校長に任命して経営一切を任せます。
学校は、格納庫も飛行機も伊藤飛行機研究所のものを使用していました。
1927年(昭和2)の時点で、アプロ式504型機と練習生7名という貧弱な学校でした。その後、たった1機の飛行機も壊れ、閉校となってしまいます。

イヨは、入学はしたものの、練習費が出せないので学校の無給助手(要するにボランティア)として雑用をするかたわら、暇をみて飛行機に乗せてもらうので、他の練習生よりも練習する回数が少なかったのです。
さらに生活費も稼がねばならないので、津田沼から東京まで通い臨時の看護師として働いていました。

2年後、彼女の努力の甲斐もあり、1927年(昭和2)12月2日付で三等飛行機操縦士と技倆(ぎりょう)証明書第21号を取得します。

前列中央が米山イヨ、その右が夫の旦代次雄二等飛行機操縦士(昭和3年春、千葉県津田沼)

札幌郷土訪問飛行と事故

この頃、イヨが以前、勤務していた札幌の斉藤医院の斉藤政之助院長は、イヨの涙ぐましい努力に感銘を受け、卒業祝いに費用を全額負担して晴れの「札幌郷土訪問飛行」を実現させてやりたいと計画します。
しかし、1927年(昭和2)5月31日、イヨは、東亜飛行専門学校を卒業したものの、まだ正式に三等飛行機操縦士試験も受けておらず、従って、“無免許“状態でした。
試験が、11月、12月となると、仮に操縦士試験に合格しても、雪で風が強い季節に北海道での飛行は、とても困難なものになります。

そこで斉藤院長は、苦肉の策として妙案を思いつきます。
それは、卒業祝いと免許取得の前祝いということで、誰か正式な操縦士を“付き添い“につけて、こちらも身内や知人だけという内輪だけの観衆にするということでした。
東亜飛行専門学校の川辺佐見校長も、この案に協力することになり、学校の「アプロ式504K型練習機」を貸与、そして助教の旦代(たんだい)次雄二等飛行操縦士を付き添いとして派遣してくれることになったのです。

「アプロ式504K型練習機」(同型機)

1925年(昭和2)8月29日、イヨは、予定通り、みんなの見守る(歓迎陣は、わずか数十名だったといいます)中、旦代二等飛行操縦士の付き添いを受け札幌飛行場上空を一周します(札幌飛行場は、北海タイムス社が現在の札幌北区役所がある北24条西6丁目を中心に設置。広さは、2万坪/6.6haでした)。

札幌飛行場(昭和17年頃)

この時、まったく偶然ですが、のちに「北海道民間航空の父」と呼ばれる上出松太郎がイヨの飛行の成り行きを見守っていたのです。
上出は、函館郷土訪問飛行を終えて、音更飛行場へ戻る途中、札幌飛行場で北海タイムス社(現 北海道新聞社)から“カストル油“(アプロ機用の特殊オイル)を譲ってもらうため立ち寄っていたのです。

上出松太郎(北海タイムス社時代)

■上出松太郎(1889〜1990/函館出身)
北海道における民間航空の先駆者で北海道の航空界に多大な足跡を残しているパイオニアである。「北海道民間航空の父」と言われている。
1925年(大正14)5月、北海道初の飛行場が音更村(現 音更町)にできる。翌年、飛行場に請われて「音更飛行場」に赴任します。
上出は、曲芸飛行や超低空飛行など“伝説的な飛行“を行いますが、上出は元々、機関士であり、当時は、無資格な操縦士でした。
その後、資格を取り、正式な操縦士となります。
1929年(昭和4)音更飛行場が破綻・閉鎖になると操縦士として北海タイムス社に入社します。

いよいよイヨ一人の“本番飛行“が始まります。
さっそうと離陸していったのに、飛行中に風向きが変わったことにイヨは気が付きませんでした。着陸した時、やや追い風で行き足が伸びてしまいます(オーバーラン)。そのため整地の不十分な柔らかい土に乗り上げ、あっ!と思った瞬間には、機体は前のめりとなり、機首を地面について逆立ち状態になり、プロペラを大破するという事故を起こしてしまいます。

事故後、イヨは、たまたま駐機していた上出のアプロ機に目がとまり、プロペラを短時間だけ取り外して貸して欲しいと頼みますが、上出にとっても貴重な部品で、万が一、再び、事故を起こされれば、音更飛行場へ戻れなくなってしまいます。

上出が困惑していると、伊藤音次郎の義兄で伊藤飛行機研究所の製作主任でもあり鳥飼式隼号を設計製作した大口豊吉(イヨの後援会の一人)が「海軍の13式水上練習機のプロペラの手持ちがあり、間に合うのではないか?」といい出します。13式水上練習機を扱ったことのある上出は、内心、ホッとして、「それなら大丈夫です。文句なしです」と安堵したといいます。

イヨは、13式練習機のプロペラを取り付け、ことなきを得ることができました。これにより、やり直しの札幌郷土訪問飛行を成功させることができたのです。

結婚後の人生

イヨは、札幌での郷土訪問飛行が縁で1928年(昭和3)2月、旦代次雄と結婚して「旦代イヨ」となります。
旦代の両親が「危ない飛行機にいつまでしがみついてるのか」と反対したため、やむなく二人は、樺太の両親の元に帰ることになります。

そうして、1929年(昭和4)7月、長女・道子が生まれますが、どうしても空を飛ぶことが諦めきれず、両親を説得して、再び、津田沼(千葉県)に戻り、イヨは、東亜飛行専門学校の助教官に就任し、次雄は、1930年(昭和5)7月31日に一等飛行機操縦士第170号の技倆証明書を取得して、1933年(昭和8)に「満州航空株式会社」に定期航空操縦士として入社しています。

当時、旅客や貨物の営業運送には、一等飛行機操縦士の資格が必要でしたが、女性には、一等飛行機操縦士の受験資格は、認められていませんでした。このために女性が飛行機操縦(パイロット)を職業とすることは叶わなかった時代なのです。

その間、イヨは、1935年(昭和10)に次女、1936年(昭和11)に三女を出産、育児に追われて操縦桿を握ることはなくなり、結局、飛行機を降りることを決断するのです。

終戦時、樺太で暮らしていた一家は、急には樺太を引き揚げることができず、次雄は、風邪がもとで結核となり、1946年(昭和21)8月10日に亡くなります。イヨは、三人の娘たちを連れて1947年(昭和22)8月13日に樺太から内地(北海道)に引き揚げたのです。

その後の米山イヨ一家の消息について知る資料は、現在、見つかっていません。

エピローグ

“看護師さん、空を飛ぶ“
米山イヨにとって100年前の飛行機は、“夢を運んでくれる乗り物“でした。

当時は、飛ぶことに対して、いまでは考えられないような驚きと感動があり、飛行機は、果てしなく人々の想像力をかき立てたに違いありません。
しかし、同時に飛ぶことには、苦難と差別そして挫折もあったことを忘れてはいけません。しかし、それに打ち勝つだけの精神力を明治生まれの米山イヨや高橋信夫は持ち合わせていました。。いまの私に同じ立場だったらできるだろうか。。。と問いかけてしまいます。

彼ら二人の資料を読み終えると心の中に“私も、その時代の澄んだ大空を複葉機で駆け抜けてみたい“という“青年のような思い“が浮かんできました。

最後に米山イヨや高橋信夫について知る稚内市民や枝幸町民は、ほとんどいないでしょう。まして北海道民は皆無だと思います。
せめて地元の観光パンフレトに彼ら、ヒロイン、ヒーローのことを短い紹介で構わないので記載してほしいと願うばかりです。




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