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利尻島コンシェルジュ/観光スポット #1 利尻山

概要

利尻山。標高1721m。深田久弥の名所「日本百名山」の最初に紹介されている日本最北の名峰である。「島全体が一つの山を形成し、しかもその高さが1700mもあるような山は、日本には利尻岳以外にはない」と述べている。利尻山は円錐形の特徴をもつコニーデ型の休火山で、その端麗な山容から「利尻富士」として親しまれている。しかし、深田は、利尻富士と呼ばれる整った山容よりも、むしろ鋭い岩が荒々しくそそり立った姿を称賛している。

コニーデ型の利尻山(礼文島香深井より)

山麓は周囲63kmの裾野となって針葉樹林を中心とする豊かな森林帯が海岸線まで拡がっているが山頂付近は火山岩の崩壊が激しく、急峻な岩壁や鋭い岩稜を形成して迫力ある景観を呈しています。この崩壊は最北の厳しい風雪により山肌が浸食、崩壊を繰り返してきた結果です。
登山コースは鴛泊と沓形の2コースがある。

また、最近では外国人がバックカントリーで利尻島を訪れ、年々、その来島者数は増加している。彼らに言わせると、利尻山の雪質は最高であり、また、海へ向かって滑ることができる場所は、世界でもあまり例がないということである。

バックカントリー(写真提供 利尻自然ガイドサービス)

利尻山は、見る方向をとわず海・陸どこから見ても実に素晴らしい景観を醸し出している。特に美しい全貌を一望できる場所は、個人的に、遠くからはJR宗谷線の南稚内駅と抜海駅の間、近くからは、香深港からの眺めが最高であると感じている。
また、島内を一周するなかにおいても様々な方向から利尻山を遠望すると見る方向により山の形が大きく変化します。

利尻の由来

”リシリ”とは、アイヌ語で”高い島”の意味である。
「リ」が高い、「シㇼ」が島という語で、「シㇼ」には、山と言う意味もあるので”高い島山”と理解できる。
この名は、沖の島といいう意味の”レブンシㇼ”と一対で名づけられたもので北海道本島側からの命名であり、本島から見て鋭く高い島山が「リシㇼ」であり、その沖にある島が「レブンシㇼ」だったのである。
アイヌ語で「リシㇼ」という場合に頭の「リ」にアクセントがあって強く発音されるので「リィシㇼ」のように聞こえるため、古文書には「リイシリ」と記されることが多い。

冬の利尻山とフェリー(礼文島香深港)

本来、島でも山でも両方で適用された「リシㇼ」ですが、特に山だけを指す場合には、「リシㇼヌプリ」と言われることもあったようで、江戸時代の探検家・最上徳内の「蝦夷草紙」には、「リイシㇼ嶋のリイシリノボリ」という記載があります。

歴史

江戸時代の探検家による登山

利尻山は古くから信仰の山で、利尻島のなかでも歴史の古い神社のほとんどは利尻山を祭神とし、大山祇神を祀っている。高くそびえるその美しい姿を航海の目印(ランドマーク)として安全を祈り、豊漁を祈願する海の信仰から山を崇め、祀ったと思われる。
フランスの探検家ラ・ペルーズも1787年(天明7)利尻島を望見し、「ランゲル」(角度のある山)と命名している。

登山の歴史を紐解くと古くは江戸時代に活躍した探検家たちの記録が残っています。アイヌは利尻山を恐れ、ほとんど頂上には登っていないようです。

利尻山の登頂として武藤勘蔵の「蝦夷日記」と松浦武四郎の「東西蝦夷場所調書」の中に記録があります。

1792年(寛政4)最上徳内が半腹までと、また、1814年(文化11)間宮林蔵がオウシナイという場所より、およそ7合目までと記されているが悪天候や断崖などに阻まれて、登頂は果たせなかったようである。
林蔵の利尻山登山は、樺太探検より6年後のことです。

林蔵が利尻島を訪れた際に飲んだ湧き水があります。それは現在、「長寿乃泉水」と呼ばれています。
場所は、「旅館 雪国」(利尻富士町鴛泊港町)の敷地内にありますが、一般開放されているので自由に行って水を汲むことができます。
長寿乃泉水は、「甘露泉水」「麗峰湧水」と並び「利尻三大名水」とされています。

長寿乃泉水(旅館 雪国/利尻富士町)

利尻大権現

当時から、利尻山は信仰の対象として「利尻大権現」と祟められ、航海の目印あるいは豊漁を願い祀られてきました。

明治の初期に利尻山は、「北見富士」と呼ばれていた事がが文献として残っています(開拓使は1869年/明治2年に宗谷・利尻・礼文・枝幸・紋別・常呂・網走・斜里などを北見之国と称した)。

宗教登山と不動明王像

1890年(明治23)紀州(現 和歌山県)の天野磯次郎という行者が、島民とともに湾内地区から登山を試み、不動明王像を山頂(北峰)に安置したといわれています。この時、登山道を切り開くのに3ヵ月を要したといわれています。たいへんな苦労の末、現在の登山道の基礎を築いたといえます。

不動明王像


現在、安置された不動明王像や棟上札などは、鴛泊地区の「大法寺」に保管されています。
北海道庁「利尻山観測記」には、不動明王が山頂に安置された後、島民の登山が行われるようになったと記されています。

北見神社と北海道三景之碑

利尻富士町鬼脇地区に「北見神社」があります。北見というのは、前述したように開拓使が北海道を11州(国)に区分していた頃の国名です。
「北見国」(北見之国)というのは、現在の宗谷、オホーツク各総合振興局を1つにした広大な地域をいいました。
この「北見神社」の境内には、「北海道三景之碑」があります。
これは、1923年(大正12)北海道三景の地に利尻富士(利尻山)が第1位で選出され、それを記念して建立されたものです。

北海道三景之碑

当時、北海道最大の発行部数を誇った「小樽新聞」が読者投票をもって北海道の三大景勝地を選出することにしました。それを聞いた島民は道内の関係者や本州の知人などへ投票を依頼したといいます。
”先進観光地”の道南の大沼公園、羊蹄山、洞爺湖、支笏湖、登別、道央の定山渓温泉、道東の阿寒湖、摩周湖、道北の大雪山などが、それぞれの投票によって得点を重ねていく中で、第2位定山渓温泉、第3位洞爺湖を抑えて利尻富士(利尻山)が第1位の栄冠を獲得するのです。

その要因の1つは、本州方面から樺太(1923年稚泊航路開設)や北洋に渡航する多くの人々が、その途中で海上に浮かぶ利尻富士の姿に魅力されたことも考えられます。

利尻登山団体の食中毒事件

1930年(昭和5)7月、北海道三景の碑の建立をきっかけに小樽新聞社北日本汽船(株)による「利尻山登山・観光ツアー」が催行され、300名あまりが参加します。
7月26日に北日本汽船の船で出発、翌朝鬼脇登山道(当時は鬼脇ルートもあり。現在は閉鎖)を登って鴛泊ルートから下山し小樽へ戻るのが28日という強行スケジュールでした。下山する前に頂上で昼食をとり、渓谷から万年雪を掻き取って乾いた喉を潤した人々60名ほどが次々に腹痛・嘔吐に苦悶して倒れ、青年団や消防団に救助されました。
その中に小樽拓殖銀行に勤務する青年で新婚旅行としてツアーに参加した方が死亡するというなんとも悲しい事件が発生しています。

島(都市)伝説~神様婆

大正から昭和の頃、「神様婆」と呼ばれた老婆が鴛泊村を中心に島内各地の民家にその奇怪な姿を現したといいます。
その老婆が、いつ、どこから島に渡ってきたのか誰も知らない、年齢も名前すらも判らなかった。
年齢は70歳位かとも想像されたが肩まで垂らした白髪、窪んだ鋭い眼、日焼けした栗色の皮膚、骨太で身長もあり長い杖をつきながら歩く老婆の容姿は異様に見えた。老婆の着物は白衣で裾も引きずるように長く薄汚れていたようだ。老婆は、首に大きな数珠をかけ民家の神棚や仏壇の前にどっかり座り何やら唱えながら祈祷をして歩いた。
仏壇に供えてある団子や餅などは老婆の食べ物だった。固くなったものでも、冷たくなったものでも老婆は平気で食べた。

老婆は青森県あたりから来た「いたこ」ではないかと噂する島民もいたが確かなことは判らなかった。ある年、冬が早くやってきた大雪の日、老婆は民家の人達の制止も振り切って自分の住み家のある利尻山に登っていった。
老婆の住まいは、きっと山の岩穴だろうが「この大雪にうまく行き着くことが出来るかどうか」と地区(湾内リヤウシナイ)の青年団が翌朝、早くから老婆の後を追って山に登った。老婆は、やはり途中で倒れて凍死していた。地区の人々は老婆の遺体を荼毘に付し無縁仏として葬り、地区の墓地に塔婆と建てた。

島では本当に不思議な話として都市伝説(島伝説)として伝わったが、現在、この話を知る島民は少ない。

ブラタモリ風(地学的)にご案内

利尻山の上部は、著しく削られ山肌が露出しており、特に山頂に向かって極めて急峻な地形を成している。
利尻山の生成期は、おそらく第四紀洪積世から沖積世の初めにわたると推定されている。

利尻山の山頂部の活動は比較的早く停止したと思われる。しかし、その北西、南東両側の中腹以下の裾野に極めて多数の「寄生火山」が確認できることは、島全体としての火山活動が相当に長い間、活発であったことを物語っている。しかし、すべての火山活動は、有史時代より、はるか以前に完了したと思われ、現在は島内のどこにも小さな噴気孔の痕跡すらも確認できない。

利尻山は、その生成に当たり、幾度か溶岩流と砕屑物とを交互に噴出して成長した「成層火山」であって、出来上がった初期においては、富士山と同様に極めて美しい単成円錐型(コニーデ型)を示していたと想像されるが、山頂部は活動停止後、長い間の削摩作用のために著しく破壊されて、生成当時の火口の跡は、失われ、火口壁と思われる一部が現在は、いくつかの急峻な峰として残されるのみで富士山頂に見られるような正確な形態をしめしていない。

冬の利尻山

頂上付近には、屏風岩、ろうそく岩などと呼ばれる険しい巨大な岩体が並んでおり、その内の岩壁中には、多数の厚い岩脈によって貫かれているもの、あるいは、ほとんど集塊岩から成るものなどが認められます。

ろうそく岩(山頂付近)

これら岩体中に見られる溶岩流の傾斜や流動方向あるいは、岩脈の方向などより推定すると利尻山生成時当時の中心火口の位置は、現在の最高点のやや南に存在していたようである。

一般的に大きな火山は、その活動の末期現象の一つとして生じた、いわゆる「寄生火山」を持っているのが常である。
利尻山も同様で、その南東、北西両側の裾野に多くの「寄生火山」あるいは、爆発火口が存在することは興味深い。
特に、鬼脇~仙法志において利尻山中腹から海岸に至る地域に「ギボシ山」(640m)、「アララギ山」(501m)、「鬼脇ポン山」(410m)、「石山岳」(300m)、「鉢伏山」(302m)、「二並山」(240m)、「ポン山」(320m)、「メヌウショロポン山」(140m)、「オタドマリポン山」(165m)など大小の「寄生火山群」が集中し、さらにオタトマリ沼周辺に沼浦爆裂火口跡と呼ばれる長径1kmのくぼ地が存在していることは注目される。

「寄生火山群」は、浸食が進んでいないために生成当時の形態をあまり失わないものが多いが、現在は、概して草木に覆われており溶岩の露出は少なく山肌がなめらかなため全体として比較的温和な山容を示している。

島の北側山麓の「寄生火山」は、南東側のもに比べて非常に少なく見るべきものとしては、わずかに「マナイヌプリ」(620m)、「オシドマリポン山」(444m)と「無名山」(500m)にすぎず、マナイヌプリの山頂には、小さな爆裂火口の跡が残されている。

登山

【鴛泊登山コース】
■コース概況
登山者の多いルート。5合目までは樹林帯の緩やかな道ですが、森林限界を抜けた6合目から徐々に傾斜が増し、つづら折りの急な登りが始まります。
8合目の長官山で初めて山頂を望むと、避難小屋(8.5合目)のある鞍部まで少しくだります。9合目から山頂までは、浮石(軽石)に足を取られて歩きにくい道が続きます。ここからが本格的な難ルートです。
夏でも雪渓が足元に忍び寄り、9月下旬には初雪が降ります。
頂上からは、足元に礼文島を望み、宗谷岬から稚内、天売・焼尻島に至るすべてが視界に入ってきます。晴れた時には、サハリン(樺太)の島影も見ることができます。
下山時に体力を消耗するので、ペース配分に注意して、十分な水分補給を行いましょう。

利尻山頂から見る”影富士”

■登山口
鴛泊市街から約5kmの利尻北麓野営場が登山口です。下山後に使用済携帯トイレを捨てる回収ボックスや靴洗い場があります。
■コース時間
標高差1490m/登り約6時間・下り約4時間(長官山で登り30分・下り15分ほどの休憩時間を含む)。山頂で1時間の休憩を考えると天候の良い日でも11時間が必要です。

【沓形登山コース】
■コース概況
上級者向けコース。6合目で森林限界を越えます。狛犬の坂で尾根筋に出てからは、急な登りと平坦な場所が交互に現れます。三眺山から雄大な眺めを楽しむと、ここから鴛泊コースとの合流点までは難所が連続します。
特に親不知子不知とよばれる場所は、事故が多く注意が必要です。このルートは、7月以降の雪解け後に利用することをお勧めします。足元が不安定なので登りにこのコースを利用した方が安心です。
■登山口
沓形市街登山口(利尻町役場前)から約5kmの見返台園地が登山入口です。見返台園地には、駐車場やトイレ、展望台が整っています。水飲み場はありません。

船上からの眺望


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