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鳥取県からの北海道移住 #1~鹿野からオホーツクへ~

●プロローグ

4月、北海道は一挙に雪解けが始まる。
同時に”穴ぼこ”だらけの道路が出現する。
小さなヒビに水が浸み込み、凍結と融解を繰り返すことが要因である。
北海道民は、この道路を見ると”春遠からじ”と感じる。まさしく”北海道の風物詩”

この穴ぼこを埋める工事のためアスファルトをめくると木の切り株が地中に埋まっていることがある。北海道以外であれば、土器や遺跡の一部が出てくることになるだろうか。

約半年もの間、雪に埋もれた道路にはヒビが目立ちます

北海道の開拓が始まって約150年。
地中の切り株は北海道開拓の厳しさを示す証でもある。
北海道の開拓は当初、士族(元武士)集団や屯田兵と呼ばれた農業を行なう士族が中心。
その後、明治20年頃より大正時代にかけて一般の人々(主として農業従事者)の移住が急増することになる。

屯田兵は北方(対ロシア)の防備を担う”防人(さきもり)”となり、農耕に従事し
時には警察官にもなりました。

●ファミリーヒストリー

大正13年(1924年)鳥取県今市村(現 鳥取市鹿野町今市)より北海道へ向かう一家族があった。それが私の高祖父の家族5名である。

鹿野は、山間の静かな400年の時を越える歴史のある街。
桜の名所としても有名な小さな城下町でもある。
先祖は、代々、ここで農業に従事していたと思われる。

鷲峰山(じゅうぼうやま|標高921m)を望む今市地区は、田んぼや畑の中に浮かんでいるような心がホッコリする癒しの場所
先祖も鍬を入れたであろう畑近くの”つくしんぼ”に、なぜか見入ってしまう

●オホーツクへ

彼らが北海道の移住先として選択したのは、オホーツク海沿岸に位置する小さな漁村 枝幸郡枝幸村目梨泊(現 枝幸町目梨泊/えさしちょう めなしどまり)。

大正初め頃の目梨泊地区。目梨は、アイヌ語で「東」や「東風(やませ)」のこと。
オホーツク海に細長くのびた「北見神威岬」は、”東からの風”を防いでくれるので
昔は海が荒れた時目梨泊は船が退避する港になっていた。
目梨泊の”オホーツク・ブルー”の海から望む『北見神威岬』の神秘的な姿。
岬はアイヌ語で「カムイ・エトゥ(神の岬)」「カムイ・エト(神の鼻)」と呼ばれます。
岬の先端には白と黒の灯台がある。以前、灯台の元には、興浜北線(北見枝幸~浜頓別間/
昭和60年廃線)が敷設されてた。2月、岬周辺は流氷に覆われる。

何故、北海道で経験のない漁師になることを決断したのか?
以前より不可解であった。それは現在でも変わらない。

当時、鳥取県からの移住者は確かに海岸部の釧路や函館、室蘭に移住した人々もいるが内陸部(江別、岩見沢、足寄、池田など)も多いのである。
普通なら経験のある農業に従事するのが妥当だと思う。

私は、このような家族の謎を解明する為に”ファミリーヒストリー”を調べ始めた。

その過程で私が20年以上にわたり関わってきた『利尻島』と" 因幡衆”(いなばしゅう)と呼ばれた鳥取からの移住民が浅からぬ因縁があることが分かってきた。

標高1721mの利尻山。太古より海を行き交う人々のランドマークのような存在
利尻島と礼文島間の礼文水道を往くフェリー
約100数十年前、利尻島で”一旗揚げる!”と鳥取県など全国から人々が利尻島にやって来た。
いま、島は人生、一度は訪れたい観光地として多くの観光客が訪れる

今後、鳥取県と利尻島、その周辺地域との関係を歴史、文化や自然、観光も織り交ぜながら、ご紹介していきます。


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