見出し画像

サムライの珈琲とストーブ〜#5 『文化の露寇(フボストフ事件)』


樺太襲撃

1806年(文化3)9月11日(日本暦)、フボストフは、松前藩が管轄していた樺太(現 サハリン)に遠征します。その際、アイヌ人1人を捕らえ、その家に「占領」を意味するロシア語を刻んだ真鍮(しんちゅう)の板を掛けて去ります。翌12日、オフィドマリ(現 不詳)を足場に久春古丹(クシュンコタン/現 コルサコフ)の会所を襲って番人・富五郎、酉蔵、福松、源七の4人を捕らえたうえ、米600俵、酒、タバコ、木綿などをことごとく奪い、サハリン(樺太)がロシア領であることを宣言して運上屋、倉庫、弁天社を焼き払いました。

船も焼き捨てられたため、松前藩に連絡の方法がなく(冬になると宗谷海峡は航行不能となるため)、1807年(文化4)3月(日本暦)に松前藩士が樺太に来て、初めて事件を知って松前藩に連絡を行い、幕府に急報します。

いわゆる後に『文化の露寇』(フボストフ事件/1806~1807年)と呼ばれる大事件の始まりとなりました。

択捉島襲撃と間宮林蔵

1807年(文化4)3月4日(日本暦)、幕府は、樺太を含む全蝦夷地を直轄領にします。

北東アジアの情勢に突き動かされ、それまでの統治の外部とみなしてきた蝦夷地を、一転して鎖国的な体制の内側に取り込んでいきます。

蝦夷地を日本領とするのですから、日本史上において画期的な出来事だったといえます。

このように樺太や蝦夷地が注目されている時、フボストフとダビドフは、1807年(文化4)4月24日(日本暦)択捉島のナイホ(内甫)を砲撃、上陸して食料や武器を奪い、番屋や倉庫を焼き払い、番人ら5人を捕らえます。

ここでも択捉島は、「ロシア領で日本人は追放する」と事実無根の宣言します。やったことは樺太(サハリン)と同じです。

4月29日(日本暦)2隻は、択捉島のシャナ(紗那/現 クリリスク)の会所を砲撃します。当地には、箱館奉行所の幕吏が駐在し、南部・津軽の藩兵が警固していました。

この中に幕府に雇われ、択捉島の測量と新道の開削工事に従事していて、のちに間宮海峡を発見する間宮林蔵がいました。

彼は、医師久保田見達とロシアとの決戦を主張します。しかし、その時、責任者の菊池惣内は、箱館へ出張中で留守を戸田又太夫と関谷茂八郎が預かっていましたが二人にはロシアと戦う気力がなかったのです。

ロシア側が3隻のボートで上陸を開始すると会所の支配人川口陽介に命じ、ロシア側と交渉させることにします。

しかし、ロシア側は無視して川口の股を打ち抜き、同行したアイヌ人も射殺してしまいます。

その後、ロシア側が大砲や小銃を放ち始めると戸田と関谷は、激しく動揺し、津軽藩も恐怖にかられ自ら陣屋に火を放ち焼き払ってしまいます。

戸田と関谷は、弾薬不足を言い訳に230名の南部・津軽の両藩士ととに遁走し国後島まで逃げ延びます。

この途中、責任を感じた戸田又太夫は、山中で自害しています。

この後も70名のロシア兵が上陸して会所を焼き、大小砲40、具足80、槍、鉄砲、刀剣等、多数の武器と米、酒などの大量の食料品を掠奪しました。

負傷して他の者と共に退却できずにいた南部藩火業役(大砲役)大村治五平を捕虜として、5月3日紗那から立ち去るのです。

この「紗那襲撃事件」により幕府は世間から非難を受けることになります。
択捉島にいた役人たちは、自らの保身のためにウソの報告をする者が多く、幕府は、彼らを厳しく処分します。

しかし、間宮林蔵は、箱館に戻り奉行の取り調べを受けたあと、江戸へ向かい幕府の事情聴取を受けますが、何のおとがめもなく、直ちに蝦夷地勤務を命ぜられ松前へ向かいます。なぜ間宮林蔵は、なんの処罰も受けなかったのか、不思議です。

ある歴史専門家は、林蔵は、身分が低かったとはいえ、武士として戦わずに逃げたという事実は、その後の林蔵の人生を大きく変えるものだったといいます。

間宮林蔵(1780~1844)

そんな間宮林蔵は、翌年(1808年)樺太探検を命ぜられることになるのです。

彼は、択捉島での悔恨を原動力として間宮海峡発見などの探検を成功に導いていくことになります。

再度の樺太襲撃と礼文・利尻等での掠奪

5月21日(日本暦)、ロシア船2隻は、再び、樺太(現 サハリン)に現れて前年(1806年)焼き払った番所を見回り、オフィドマリ(現 不詳)で番屋や倉庫を焼き、クシュンコタン(現 コルサコフ)やルタカでも建物を焼き、物資を掠奪します。

しかし、前年の事変を聞いて出兵していた160名の松前藩兵は、ロシア人が大勢で防ぐことが出来ないと考え、宗谷に退却し、6月10日に幕府へ報告します。

それから数日後の5月29日(日本暦)、今度は、礼文島沖で松前商人である伊達林右衛門の商船「宜幸丸」(ぎこうまる)を追撃して乗組員が伝馬舟で脱出したあと、食料品や衣料品を奪い、宜幸丸を焼き払います。

更に6月1日には、ノシャップ岬沖(現 稚内市)で松前藩船「偵祥丸」に発砲して追撃、乗組員が小さな舟で逃れたあと、武器、弾薬、その他の積荷を奪い、その足で利尻島(鴛泊港)で停泊中の幕府の官船「万春丸」と松前商船「誠龍丸」を襲って積荷を奪ったうえ、両船を炎上させるなど手あたり次第の暴行ぶりでした。いずれの船も乗組員は、逃げ去って空船でした。

現在のノシャップ岬より利尻島を望む

この襲撃の特徴は、いずれも人に対する危害を避け、物資の掠奪や建物、船を焼く、一種の脅し的な暴行だったといえます。

幕府の対応とロシア船打ち払い令

ロシア船の来襲で宗谷(現 稚内市)の陣屋が戦々恐々としている時、利尻島で前年(1806年)択捉島でロシア側に捕らえられていた南部藩の大村治五平と樺太で捕らえられていた番人・富五郎ら8人が宗谷に帰ってきます。彼らは、利尻島で開放され、ロシア側から幕府に宛てた書簡を携えていました。

宗谷勤番の支配調査役・深山宇平太から幕府に届けられたロシア側の書簡は次のような内容でした。

『通商を請うといえども承諾なきにつき、我が皇帝怒りて技倆(ぎりょう)を示せり。通商を許さば末代までも懇意たるべし。然らざれば又幾多の船を派し掠奪をなすべし」

要するに、「このまま通商を許可しなければ、北の地を攻撃する。しかし通商を許可するのであれば、以後、友好に心がける」というものでした。

このロシア船による襲撃事件は、フボストフやダビドフらの日本に通商を開かせるための示威的暴挙でしたが、北方の各陣屋では、ロシアが本格的に攻撃してくる前哨戦とみて緊迫した雰囲気に包まれていました。

しかし、それっきりロシア船は、再び現れませんでしたが、幕府は、ロシア船の再来襲を警戒して北方の防備を増強することになるのです。

ただし、防備は、宗谷限定とし、樺太(サハリン)は、これまで通りアイヌを撫育するにとどめ、番屋・倉庫の再建も出兵も無用とします。

フボストフらの来襲後、幕府内や知識人の中には、ロシアと通商を開くべしとの意見もあったようです。

しかし、幕府首脳は、ロシアとの通商論をとることはなく、紛争を避ける慎重な態度を保ちつつ海防を強固にする方針を定め1807年(文化4)12月には、今後、ロシア船を見たなら厳重に打ち払い、海岸に近づく場合は、召し捕り、または、打ち捨てるなど適宜の処置をとるように諸藩に命じます(ロシア船打ち払い令)。

フボストフとダビドフのその後

択捉島や樺太襲撃を終えてオホーツク港へ帰還したフボストフとダビドフは、同地の長官ブハーリン海軍大佐に投獄されてしまいます。同時に日本での戦利品も没収扱いとなるのです。

ブハーリンは、彼らの行動を海賊行為とみなしたのです。

彼は、「二人の日本における略奪行為は、ロシアの国益に反する。日本がもしオランダに援助を求めたなら、北方に三隻しか武装船のないロシアは危険にさらされる」と報告書の中で述べています。その裏には、露米会社に対するオホーツク官憲(ブハーリン)の嫉妬もあったとされています。

その後、2人は脱獄してヤクーツクへ逃れ、イルクーツク知事の仲裁を得て首都ペテルブルクに帰ることができました。

2人は審問に付される予定でしたが、関係書類の到着が遅れ、その間にスウェーデンとの戦争に砲艦指揮官として派遣されます。

彼らは、功績をたてますが、皇帝アレクサンドル1世は、日本人に勝手な振る舞いをした両士官への懲罰として勲章を与えることを拒否します。
彼らは、叙勲と引き換えに処罰を免れることになります。

2人は、1809年秋、ペテルブルクの旧知のラングスドルフ邸で酩酊した上、ネバ川にかかる跳ね橋にとび移りそこねて溺死してしまいます。
無二の親友同士だった二人は、人生の最期も一緒だったのです。

1820年代のサンクト・ペテルブルク

諸藩の出兵

日本を襲った中心人物の死を日本側は知りませんし、二度と日本近海に姿を現すことがないことも知らなかったのです。

1808年(文化5)、幕府は、南部・津軽藩に藩兵各250人のほか、仙台・会津藩に命じて、仙台藩は、2000人で箱館・国後島・択捉島を守り、会津藩は、1600人で福山・宗谷・利尻・樺太を守ることになります。

来るはずのないロシア船を、幕府から警備を命じられた各藩は、虚しく待ち続けることになります。

そこには、ロシアに変わって「寒さという敵」との闘いと悲劇が待っていたのです。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?