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高齢者に手を貸して、親や自分の将来に思いを馳せる

気温が三十五度を超えた休日のある日のことだ。お昼は家にあるもので何とかしようと思っていたが、暑すぎる。こんな日には冷たい麺が食べたい。そう思い始めたらどうしても麺が食べたくて仕方がなくなり、外は暑いが買いに行くことにした。

店の近くまで来ると、店前にある道路標識の棒に両手で掴まっている男性が見えた。八十代後半くらいだろうか。買い物を終えた後のようで、肘に買い物袋をぶら下げている。

その姿は、まるで沈みゆく船の上で柱にしがみついているかのように必死だ。棒の前には自転車があった。

自転車に乗りたいが、高齢のために片足でスタンドをあげる作業が難しいのだろうか?

手伝って欲しいと声を掛けられるかと思い前を通ったが、何も言われなかった。朝の通勤時間といった先を急いでいる時だったら、見て見ぬふりをしてそのまま通り過ぎていたと思う。

だが、特に何の予定もない休日の昼である。あまりに必死に棒に掴まっているその姿がなんだか父と重なり、気になって声を掛けた。

「自転車を動かしましょうか?」
「いや、いい」

当然「お願いします」と言われると思っていたが、意外にも断られてしまった。そうか、私の気にしすぎだっただけで大丈夫なのかと立ち去ろうとしたとき、「その代わりに手を貸して」と言われた。

手伝ってほしいというよりも、私の手に掴まりたいという意味での手を貸してだろう。

大丈夫かな? という思いが浮かぶ。そろそろ夫が戻ってきて、この辺りを通る時間だ。私が見知らぬ男性と手をつないでいる姿を見て、浮気を疑われないだろうか?

高齢の男性が私の手に掴まる姿を想像する。うん、疑われそうにないな。事情を説明すればあっさり納得してくれるだろう。

つづいて浮かんだ大丈夫かな? は、何もされないよね? の大丈夫かなである。アラフィフの私が何の心配をと自分でも思うが、八十代後半の男性からしたら、私はまだまだ若いのでないか? しかも八十代とはいえ、お元気な方はお元気である。

そんな逡巡をしていたら、「もうダメなのだな」と呟く男性の声がした。見ると男性がいかにも苦々しいという顔をしている。

その顔は、昔よくいた昭和の頑固親父そのものである。勝手ながら、男性の背景を想像する。

恐らく子供達に一人暮らし、もしくは一人での買い物はもう無理だろうと言われたのだろう。バカにするなと怒って出てきて、ほら見ろ、一人で買い物できたじゃないか。まだまだ一人で大丈夫だ、と思っていた矢先、店を出た途端に動けなくなってしまった。

そんな自分への失望やら諦めやらが織り交じった感じの「もうダメなのだな」の声だった。

うん、この人は私が男性だとか女性だとかといったことを全然気にしていないな。本当に手を貸してほしい、それだけだ。大丈夫だろうと思い、手を差し出す。 

なんだか王子様が階段を降りるお姫様に手を差し出すような感じになった。私が王子様側で、男性がお姫様側ではあるけれど。

男性が棒から右手を放し、私の手を掴む。男性の白い手が父のようだと思ったが、父とは違い温かい手だった。病気をしてから父の手はすっかり冷たくなってしまったが、父の手も昔はこんな風に温かかった。

そんな風に思っていたら、私を掴む男性の手にギュッと力が入った。ハッとして、男性を支えられるよう私も手にぐっと力を入れる。

すると男性は棒から左手も放し、ゆっくりゆっくり自転車を避けるように歩いた。自転車の横まで歩くと、「ここでいい。ありがとう」と言って私の手を放した。放した右手を別れのあいさつ代わりにそのままちょっとあげて、男性はすたすたと歩いて行ってしまった。

どうやら自転車に乗りたいのに乗れなかったのではなく、ただ単に道路に出られなかったようだ。

男性のいた場所を見てみる。段差をなくすためのスロープがあった。とても緩やかなスロープだ。私から見たら、段差をなくして高齢者でも上り下りできるようにしているんだな、と思うスロープである。

だがその緩やかなスロープさえ、あの男性には下りるのが難しい下り坂になってしまったのだ。きっと前のめりになってそのまま転んでしまいそうで怖く、棒から手を離せなかったのだろう。

平坦な道路ならすたすたと歩ける位に元気な高齢者が、こんなに緩やかなスロープを下りられず買い物が困難になってしまうのか。男性に近い年齢の両親や義父がいる私にとって、これはかなりの衝撃だった。

何があればよかったのだろう? そもそもスロープがなければ段差で上ることができない人もいるだろう。スロープに手すりがあったらいいのだろうか? でもそうすると幅が狭くなって、ベビーカーの人や食品を運ぶ業者の人等が今度は通れなくなってしまうかもしれない。

杖を持っていればよいのだろうか? 杖があればなんとかスロープを下りられるかもしれない。だが、そうすると買い物の量を片手で持てる量に制限しないといけないし、傘が必要な雨の日には買い物に行けない。

買い物を諦めて配達を利用してはどうだろう? でも、お店に行って色々な商品の中から自分の好きな商品を選ぶという楽しみがなくなるだろう。外出する機会が減ってしまうから、すたすた歩ける足腰も弱ってしまう。しかも人と接する機会も減ってしまうから、認知機能も落ちてしまいそうだ。

ぐるぐるぐるぐると考えは巡るけれど、これがベストという考えは見つからない。

あの男性は、近い将来の両親や義父の姿なのだ。それだけではない。遠い将来の自分自身の姿でもある。

両親や義父が将来あんな風に困ったとき、どうすればいいのだろう? 活発な母や義父は、誰かを呼び止めて助けを求められそうだ。だが、父は助けを求めることができない。下咽頭ガンで喉を全摘したので声を出せないからだ。

困って途方に暮れる父の姿が思い浮かんで、胸がぎゅっと痛む。

誰か、声をかけて手を差し伸べてくれる人はいるだろうか? 今回私が差し出した手が巡り巡って他の人の手となり、いつか父を助けてくれることを祈るばかりである。

高齢者に限らずだが、具合が悪くなった人、ベビーカーの人、障害のある人、色々な困った人に声をかけ差し出される手があったら、それはいつか家族や自分自身をはじめ皆が助けてもらえるし、安心して暮らしていくことができるのではないか?

声かけや差し出す手が、当たり前にある社会だと幸せだ。

急いでいる時なら見て見ぬふりをしていただろうと思ってしまった自分自身を反省する。まずは自分から変わらなければ。

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