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目指す場所が見つかるとき

わたしが
フリーのベビーシッターを
選んだきっかけは

今思うと
全てがお膳立てされていた!

そんな風に
思えるようになりました。

保育士になったことも
放送大学に入ったことも
個人事業主となったことも

辛いことも
正直無かったとは言いません

失敗も沢山して来たけれど

だからこそ導かれたように
感じることがあります。

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私が保育士を選んだきっかけは

↑こちらを是非♪

ココからのお話は
フリーのベビーシッターに
辿り着く迄の話です。

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卑屈な気持ちがキッカケだった

4年前、
放送大学に入ったときは
幼稚園教諭免許を取るための
選科履修生でした。

当時の私は
自分が学士資格を取ることなんて
想像もしていなかったと思います。

私は既に40代でしたし、

ドラクエ3だったら
きっとレベル20くらいの
僧侶くらい?かな…と。

よって…ザキもザオラルも
未だ使えない状況。

同年代の保育士の方々は
キャリアがかなりあるか
ご家庭をお持ちの
パートの方々でしたから

実はとても卑屈な思いを
抱えていました。

子どもたちのことは
とても好きでしたし

お家の方々も
素晴らしい方々ばかりで

私はとても恵まれていましたが、

年齢の割に
保育キャリアのないことは
私にとって
少々窮屈なものでした。

私の大学での学びや知識は
現場で取り入れるには
未だ私の知識は浅く

私自身にそれを押し通すほどの
力も勇気も自信も
ありませんでした。

研修レポートなどは
それなりに書けてはいたし、

子どもたちの分析も
そこそこ
出来ては居たけれど、

他の先生方に物申す勇気は
持ち合わせて居ませんでした。

保育課卒ではない私は
幼稚園教諭免許を
持っていないことは

実施では必要ないと思いつつも
私の中では
肩身が狭いことの一つでした。

そんな最中に

「幼保連携に向けた特別措置」

大学で8単位を取れば
幼稚園教諭免許が取れる!

私はそこに
一筋の光を見た気がしたのでした

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卑屈→希望へ

美術系短大卒の私は
高校生の頃
4年生大学受験を
諦めて居たので

今の状況が
奇跡のように思えます。

私の通っていた高校は
大分県では有数の進学校。

だから
同級生は
結構…四年生大学卒の方が多い

彼、彼女たちのお話に
実は…ついていけない私が居て

卒論、卒研
サークルにゼミに
キャンパスライフ

当たり前のことを知らない私は
同窓会での彼、彼女たちが
煌めいて見えていました。

そのこととは別になりますが、

私が横浜で
職業訓練に行っていたとき

訓練生の中に
若い女性が居ましたが

その彼女は
定時制で子育てをしながら
大学で学んでいた姿があり、

その彼女の様子を観ていて
準学士と学士の学びの差を
感じていました。

たまたま
幼稚園教諭免許欲しさに入った
放送大学でしたが、

面接授業を
選科履修生でも受けられることを
知りました。

コレが!受けてみると
凄ぶる楽しかった!

先ず、
年齢や職種がバラバラなこと

若い方から
年配の方まで男女を問わず
対等に学べる空間であること

そして
様々な職種の方々
学びを目的に集まっていること

そして何より
大学という空間で
(放送大学は
 別府大学や九州大学などの
 敷地内にある)
大学生の気分を味わえること

学食を学友と食べたり、
他県に
授業を受けに行くことも出来たり、

もしかしたらこのまま
学びを続けられたら
何かが変わるかもしれない!

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そんな中
私は半年間で8単位を習得し、
幼稚園教諭2種免許を取得。

この時の私は、
ダーマ(転職)への道を
切り拓いた気分でした。

この感じなら
今度は
大学卒業を目指せそうかも!

私の中の卑屈なエネルギーは
小さな希望へと
変化を遂げたのでした♪

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キャリアアップと学生生活

保育園で働きながら学ぶことは
正直…大変でした↓。

パート保育士だった私は
正規職員になって初めて
書類を作ることになりました。

年間計画、月案、
個人記録にアセスメントシート
勿論描いたことも無かったので

保育士試験で学んだことを
頭の隅から引っ張り出しながら

諸先輩方の記録を拝見したり、

当時の同じクラスを持った先生や
主任や園長に教えを頂きながら
書き直しを何度もする日々…。

ただ、私は元々OLでしたので、
PCが使えることが強み。

基本、
書類の持ち帰りは
出来なかったので

頭の中で大凡のものを整理し、
休憩時間に
PCを持っていき

当時は夜勤のある仕事でしたから
夜勤の間に
作ったりしていました。

運良く、
私が働いていた施設の方々は
厳しくも優しい
素敵な方々でしたから

そんな私の質問に
しっかりと
応えてくださいました。

そんな頃、
突然…

パート上がりの私が
初めて
一人で担任をすることに!

発表会の内容を
作って決めることも
初めてのことで、

何をしたら良いか
思った以上に
解って居なかった私。

お正月も自宅で
作り物をして過ごしましたが

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それでも間に合わないし、
人に何をお願いしたら良いかも
全く判らない状況。

気分的には
いきなり一人で
ピラミッドに入った感じ
(マミー出たら瀕死確実!お金も半分↓)

そんな私に
当時の主任や同僚は
解らないことすら分からない私を

忙しい中も見捨てること無く
一緒に組み立てを
してくださいました。

(この頃教わったことは、
 その後の私を助けてくれてます。)

それと重なるように
大学の単位習得試験があり

休みの日はほぼ
大学の試験勉強と
作り物をする日々。

そんなでしたから
仕事のことばかり
家でも話すようになりました。

そのうち
息子氏とも
すれ違うようになってしまい

遂には
健康診断に
引っ掛かってしまいました。

棺桶に入れられて
気がつけば教会に居て

「死んでしまうとは情けない」

と説教されている気分でした。

担当ドクターとも相談し、
夜勤のある職場は
辞めることにしました

それから
私は運良く
認可園の正職員に転職。

家族と職場の皆様の協力もあり、
少しずつ大学の単位を取得しつつ
卒業を目指しました。

大学生をしながら

認可園パート

無認可園正規職員

認可園正規職員

そうして2年毎に
少しずつキャリアを
変化させて来ました。

同時に
大学卒業も
手の届く感じに

少しずつ
なって行ったのでした。

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視野の広がりとモヤモヤ

認可園で働き始めた
2年目に入る少し前から

保育園で働くことには
少しずつ慣れて来ていました。

担当した子どもたちも
毎日元気で可愛くて。

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主担になることも
何となく熟せるように
なりつつありました。

が、

2年目は担任を外され
フリー保育士となることに。

そうすることで
様々な月齢の子どもたちと
関わることが出来る
良い機会ではありました。

当時の園としては
おそらく

私が
何処の月齢も
担当出来るように

という
配慮だったのだと思います。

が、
その当時の私は
そこに気がつく余裕が
どんどん無くなりました。

休憩時間に
書類作成は無くなりましたが、

保育計画を立てられないことが
私の中では
とてつも無く苦痛の時間でした。

この時期から

組織の中で
自分の保育の実現を
目指すことは

とても難しいと
感じるようになりました。

お母さんたちの様子から
声を掛けたかったけれど、

担任ではない為
あまり介入出来ず、

現場で
実践したいことを
実現出来ない

その思いは
フラストレーションとなり
積み重なって行きました。

自分の保育をしたい

出来れば少人数で、
丁寧に関わって行きたい

子どもたちの一瞬一瞬を
お家の方々と
共に喜び味わいたい

そう思い始めると

このままで良いのか?

と不安も覚えるようになりました。

年齢も
40代半ばになると

以前より
悔しいけれど
圧倒的に無理が出来ません。

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夜中、作り物をして
翌日を迎え
仕事をしたりすると

子どもたちと遊ぶとき
耳鳴りがしたり
クラクラとし始める自分。

おまけに五十肩で
手も上がらなくなり

子どもたちに
身体の動きを見せることが
全く出来ない私。

かと言って
管理職に就けるほど
保育士歴も実績もない自分

私の中で
保育園で働いている未来が
霞んで見えなくなりつつありました。

そんな中、

放送大学の面接授業では

私よりずっと年上の方々が
キラキラと夢を持ち
学びを続けている姿がありました。

若い学友も
志しを高く掲げ
未来に向かっている↑

子どもたちと過ごす日々は
とても幸せなのだけど

このまま
長く続けられる仕事なのか?

このまま
挑戦することを辞めても良いのか?

そもそも
私の天職は保育園の保育士なのか?

そんな風に
考えるようになりました。

勇者を育てるために
先頭で戦って居ましたが

気がつけば私は
回復要因でしか無く

呪文で攻撃に参加することも
出来ずに居る感じでした。

私になら出来る何かは
他にあるんじゃないのかな?

そんな
モヤモヤした日々が

私に
新たな一歩を見つける
手立てとなりました。

・*:..。o○☼*゚・*:..。o○☼*゚・*:..。o○☼*゚

飛び込んでみた!

そうした
紆余曲折とモヤモヤの中
出逢いがありました。

詳しいことは
前置きが長くなり過ぎたので
ココには書きませんが

その組織には
私の志しと似たものを
感じました!

生まれて初めて

この人たちと関わって行きたい

そう思える現場を
見つけることが出来たのです!

「私もココで働かせてください!」

何を思ったか
無鉄砲にも私は
門を叩いて居ました。

フリーランスになるリスクは
ある程度
知って居ましたし、

このまま保育園で働いていれば
安定を保てることも
知ってはいましたが、

モヤモヤした
人生を送って

挑戦することもなく

これから先を
生きている自分を
許せそうに無かったんです!

今だから思えるのですが、

おそらく
自分の今までの経験を

何かしら
価値のあるものにしたかった

それだけだったのかもしれません。

今更、
アルバイトから
はじめることは

ドラクエ3なら
僧侶→遊び人に天職するくらい
無鉄砲なこと

家族にも
負担を掛けることになるし

生活も不安定になるリスクは
かなりあったのだけど

どうしても
そこにいる人たちと
働きたかったんです。

遊び人に天職すれば、
『悟りの書』が無くても
賢者になれる可能性がある

私が人生を変えられるとするなら
今、変わるしかない!

そう思ったからなのでした。

こうして、
先ずは週1で
その組織で働くのですが、

賢者揃いのそこの組織では
何をして良いのか
全く判りませんでした。

掃除やお茶を入れることしか
出来なくなり
全く役に立たない状況。

何をして良いかも
わからなくなってしまいました。

段々と週一に通うことが
恐怖でしか無くなり

そんな私を
叱ってくれる人も居ましたが
反論の余地もない情けなさ。

毎日泣いて…
仕事が無くなるんじゃないかと
不安で堪らなくなり

結構な
駄目人間になっていたと思います。

結果論として、
私以外のパーティーは
賢者揃いだった為

私もレベルupは早く、
気がつけば
賢者に天職するところまで
手が届くのも早くなりました!

かといって、

わたしと同じように

夢に向かって無鉄砲に
飛び込むことを
薦めるかというと

そういう訳でもありません。

僧侶には僧侶の
更なる高みがある訳だし、

その後のドラクエシリーズでは、
その職業でしか使えない
技や呪文もある訳です!
(それにしても良く出来てるな〜ドラクエ!)

それに、

リスク管理のことを考えたら
書類整理や準備作業は
オフを使わざるを得ない訳で

その分ユーザーと調整出来れば
自分の思うところに
休みを作ることも出来る訳で

サラリーマンの方とは
通じ合えない部分が
出て来てしまい

かなり孤独な時間も増える訳ですし。

そのおかげもあって、
ベビーシッターも始めた訳です♪


・*:..。o○☼*゚・*:..。o○☼*゚・*:..。o○☼*゚

実例のない冒険の書を作る

わたしももう少し若い頃から
目的に向かっていれば…と
思うこともありますが、

子育てをしなかったら
保育士にはなって居なかったし

日本の子どもたちの未来について
考えることも無かったし

幼稚園教諭免許を取らなかったら
放送大学には入って居ないし

放送大学に入らなかったら
心理や教育について
深めようとも思わなかったと思います

これら全てが
若い時期に思いつけていたならと
何度も考えたのですが

最初から
みかわしのふくは買えないし、

はぐれメタルの存在も
ダーマで転職出来るってことも
気が付けたりはしない訳です。

わたしが出来ることは
今を楽しく懸命に生きることで

若いうちから
何歳になっても

何かに気が付き
前に進むことが出来るって
自分を信じる…ただそれだけです。

わたしが目指す場所を
見つけたのは
子どもを産んだ後だったけれど

その場所を見つけることを
早める方法は

とにかくやってみること!

失敗しながらも行動してれば
やりたいことは見えてくるし

今は未だ見ぬ誰かが
冒険の書の存在を
教えてくれたり

地図をくれたりします!

それはまるで
用意されていたかのようにね♪

わたし46歳!
未だ未だこれからです♪

長々と読んでくださって
本当にありがとうございます😊

Mahalo nui loa♪

「日本にクリエイターを増やしたい!!」 ★保育士しながら認定心理士資格取得★ パート→非正規→正規(無認可)→正規(認可) →フリーランス保育士・児童指導員 保育士時代に学んだ心理学を 子育てや保育、描画コンテンツに 生かし実践! 主体的で能動的な日本人を増やし続けてます♪