アニメ 鋼の錬金術師 旧作 感想 無力な子どもは仔猫一匹救えない

アニメ鋼の錬金術師旧作、および劇場版『シャンバラを征く者』の感想になります。原作の漫画を読んでいないので比較などはありません。

初見ではなく今回で見たのは3周目(劇場版を2周目)です(感想を書くために今4周目を見ていますが)。1周目2周目も好みの作品ではありましたが、話をあまり覚えておらず3周目を真剣に見てみると、なかなか独特な物語だと気づきました。メモも兼ねて、物語を考察しつつ感想を書いていきます。

内容は目次を参照してください。
作品を見ている前提なのでネタバレはしまくります。

○鋼の錬金術師アニメ旧作はどういう物語なのか

●子どもが大人になる物語

おいまたか、とか言わないでくださいよ。
前回もそうだったろ、と。

子どもが大人になる話好きなんですよ……
感想書くほど好きな物語はテーマが共通しがちなんですよ……

子どもなのはもちろん主人公のエドワード・エルリックです。これは、大人の論理に反発していたエドワードが自分が大人になることを受け入れる物語です。

●子どもの物語

この物語の主軸となるキャラクターは子どもです。このアニメには大人のキャラクターはたくさん出てきます。しかし物語の終盤、劇場にいるのは、エド、アル、エンヴィー、ラース、グラトニー、ダンテ、ロゼ、赤ん坊。

グラトニーはラストとの関係を見ると子どもの立ち位置にいます。ダンテを除いて、残りのキャラクターは子どもです(でもロゼはどっちだ?)

ハガレン旧作ではスポットが当たるのは子どもです。

そして子どもとは、無力な存在なのです。

●ただ無力な子どもである主人公

主人公であるエドワードはただの子どもです。
確かに彼は天才と言われるほどの錬金術師で、身体能力も高いです。
しかしただの子どもです。
天才と言われるほどとはいえ、エドより実力のある錬金術師はいます。身体的にも及ばない人間はいます。

天才と呼ばれるのは、彼が国家錬金術師の資格を史上最年少の12歳で取ったから。エドはせいぜい、一般人より強い、に過ぎない。子どもにしてはよくやる、って周りの大人に評価されているに過ぎない。

この物語の中でのエドはそんな存在です。彼は徹頭徹尾ただの子どもとして描かれていて、周りの大人は彼を一貫して子どもとして扱います。

大人がエドと対等に接することはほとんどありません。大人にとってエドは、ちょっと錬金術師ができる、生意気で無力な子どもです。マスタング大佐をはじめ、マスタング大佐の部下たちは、子どもであるエドとアルを守ろうとします。大人のそんな心理を、エドは理解できません。

親の心、子知らず。

エドは自分がたくさんの大人に気にかけられ、守られていることに気づきません。

バトルのあるような物語で、主人公がここまで「ただの子ども」な物語ってあんまり見ないので面白かったです。

●子どもの世界と大人の世界は分断されている

子どもは大人の世界に介入できず、大人は子どもの世界に介入できない。

エドがどれだけ大人ぶったって、大人は彼を一人前として扱いません。周りの大人がどれだけエドに寄り添おうとしても、エドは大人を信用しきれません。

ハガレン旧作では、大人の世界と子どもの世界には隔たりがあります。

物語終盤、地下都市に行くヒントを与えるのはトリンガム兄弟です。これ、もしこのヒントを出すのが大人のキャラだった場合、かなり雰囲気変わると思いませんか?

軍の大人たちは彼らに比べればエドとの付き合いもかなり長いです。でもヒントを出すのはトリンガム兄弟。なぜかって、彼らがエドにとって信頼できる子どもだからです。同じ世界を共有している子どもだから。

子どもの世界に生きるエドは、大人の心情を分からないし、大人の世界に生きるロイ・マスタング大佐は、エドに寄り添うことができない。
しかし、この2人は物語の中で、最終的にほんの少し価値観を共有します。

エドとマスタング大佐の関わりは、子どもと大人の歩み寄りの象徴でもあります。

○鋼の錬金術師旧作 ここが面白い

●エドの子どもらしさ

言った通り、エドワード・エルリックはただの子どもとして造形されたキャラクターです。このアニメではそんなエドの子どもらしさが随所に現れています。それはもちろんセリフだったり、仕草や表情だったりします。

個人的に好きな場面ですが、16話でアームストロング少佐が列車に間に合わないからと、エドとアルを担ぐ場面があります。半壊しているとはいえ鎧のアルを担ぐんですよ。アームストロング少佐ぐらい体格が良くないとできないことです。アームストロング少佐のエドとアルに対する思いやりと、エドとアルの子どもらしさがよく出ていて良い場面です。

あと、またリアリティの話していいですか(前回の記事で遊戯王GXの子ども像のリアリティの話をした)。

私の思うリアルな子ども像とは、
・自分が子どもであることを理解している
・普段から子どもだけど、時々意図的に子どもを演じる
・大人な面もあるし、大人っぽく演じることがある
・めちゃくちゃ真面目にふざけたことをする
です(コピペ)。

単純に言えば、
大人の面と子どもの面、両方を持っている(コピペ)、です。

エドの子どもらしさはリアリティがあります。

ヨキ中尉とビジネスの話をするときは大人として振る舞い、トリンガム兄弟と接するときは自然体。マスタング大佐と話すときは、自分が子どもで相手が大人であることを意識するため、結果殊更子どもらしく見えます。

エドは自分が子どもであることを自覚し、子どもの面と大人の面を使い分けます。

ラース登場時の描写もなかなかわかりみが深いです。ラースがホムンクルスで、自分たちの敵かもしれないと疑うエドとアル。それを意にも介さないイズミ。ラースに悪意があるのではと疑うのは、ラースが子どもだからです。
味方が子どもなら敵も子ども。大人は部外者。分断された子どもの世界と大人の世界の描写にリアリティを感じます。

●静かな陰鬱さ

面白さのところで語ってはいますが、正直好き嫌いの分かれる部分でしょう。

始まり方もなかなか痛々しいですが、終盤にかけて陰鬱さは加速していきます。私はこういう陰鬱さは好きです。それでも劇場版まで見終わった後、少し気分は落ち込みました。一応それなりに明るい雰囲気で完結しますが、総合的に見て明るいアニメとは言えません。

これは、ハッピーエンドなのか……?
ビターエンド……?

わからないな。

とりあえず暗いです。

ただその陰鬱さが、演出的に物凄く感情を揺さぶるものにもなっているんですね。

ニーナが死んだ回、ED曲『消せない罪』との親和性は物凄いです。分かっていても気分が落ち込んできます。

せっかくだから主題歌の話をしましょうか。なんだかんだ一番印象に残るのは『消せない罪』かなあと思います。リライトは無論名曲ですけどね。
悲壮な歌詞がエドの子どもとしての弱さ、犯した過ちに対する後悔とマッチしています。最後のカットでカメラの方を向き微笑むエド。

あの笑顔は明るい気持ちからくるものではないじゃないですか。いろんなことを経験して、楽しいだけではいられないし、無垢な子どものままでもいられない。

結局このアニメの陰鬱さって、エドの罪深さからくるんだと思います。

母を蘇らせるために人体錬成をした結果、弟の身体と自分の手足を失い、リオールの街に内戦を起こすきっかけを招き、不可抗力とはいえ人を殺した。

エドのやったことで良いことももちろんありますけど、15歳の子どもには荷が重いことばかりしています。話が進むほど罪を重ねるから、自分が犯した罪に押し潰されそうになってエドの表情がどんどん暗くなる。

そんなエドの心情に合わせた『消せない罪』、名曲じゃないですか。
曲ダウンロード販売してるかな?
あとで買おう(買った)。

●行き過ぎたケレン味

終盤、ただの悪ノリなのではないかと思えるぐらいにケレン味が凄いです。ケレン味が凄過ぎて内容がめちゃくちゃシリアスなのになぜか笑えてきます。

アニメの終盤の舞台が劇場なんですよ。ダンテが音楽とか流しちゃう。なんならエドとロゼが踊っちゃう。個人的にはアレに特に意味はないと思うんですよ。じゃあなんでやるのか。

ケレン味があるから。

エドが門の向こう側に渡り、空襲警報と共に流れるベートーヴェンの『交響曲第5番』。じゃあなんでその曲を流すのか。

ケレン味があるから。

それ以外に理由はないと思います。

『交響曲第5番』、俗に言う『運命』が流れた時とか笑いました。ファンタジーの世界が唐突にミュンヘンの街になり、飛行機が飛ぶ中で流れる運命ですよ。

これが "ケレン味"。

この場面のためだけにこのアニメを50話見てきても、個人的には損はしないと思います。

それぐらいこの場面は凄い。
凄過ぎて笑う。
何度見ても笑う。

言ってしまえば新海誠作品のボーカル曲が流れるめちゃくちゃ盛り上がる場面に感覚は近いです。強制的に見ている人のテンションを想定の位置に持っていく。イヤでもテンションが上がります。なんか名作アニメを見たような気にさせます(それはそれとして私はハガレン旧作を名作アニメだと思っている)。

個人的には特に意味もなくケレン味だけで盛り盛りの演出しちゃうのは好きです。やりすぎはメリハリがなくなるので、ここぞという場面で盛ると効果的でしょう。

●キャラクターの表情

まずハガレン旧作は作画とキャラクターデザインがめちゃくちゃ良いです。個人的にはアニメ作画とキャラデザの理想型です。そのぐらい良い。
それでこのアニメ、作画で拘っているのはキャラクターの表情。特にエドの表情です。表情で心情が伝わってきます。

グリードを殺した時の表情。
軍から逃げている途中でハボックとヒューイにケガをさせた時の表情。
ダンテの持っていたラブレターを見た時の表情。
ホーエンハイムになぜトリシャと結婚したのか答えを聞いた後の表情。
ここまでキャラの表情を見せてるアニメはそうそうない気がします。そこに声優の演技が加わるとエドの感情にいちいち「うわあ……」ってなります。

ただでさえ美しい作画と洗練されたキャラクターデザイン。それがキャラクターの表情をめちゃくちゃ繊細に気合いを入れて描写するんです。こんな贅沢なアニメはそうそうありません。私の好きな作品全部この作画になってほしい。なんで遊戯王GXは作画が悪いんだ!

物語が進むにつれて、エドの心情はセリフより如実に表情に表れる。いろんな感情がないまぜになった複雑な表情が、このアニメは特に上手い。

印象に残っているのは、やっぱりニーナ死亡回特殊EDのエドの笑顔。あと劇場版の最後に見せた穏やかな笑顔です。エドは子どもでいられなくて、無邪気に笑えなくなって、でもあんな穏やかな表情をする大人になった。

もしアニメを見ていなくて興味を持ったなら、キャラの表情に着目してアニメを見てほしいです。

○キャラ個別感想

書きたいキャラだけ書くのでメインキャラ全員とかではありません。
エドの枠は最後に回します。
例によって長いから。

●アルフォンス・エルリック

●アルはなぜ身体を取り戻したいのか

私にはわからなかったです。
そもそも具体的な理由なんてないんじゃないか?
理由はいらないかもしれない。
なんとなく戻りたい、で十分。
エドが「なぜ弟は身体を取り戻さなければならない?」とラストに聞かれても答えられなかったように、合理的な理由はないんだろうな。

というかアルは本気で自分の身体を取り戻したかったんでしょうかね?

エドは「自分よりアルの身体を〜」
アルは「自分より兄さんの手足を〜」
って感じで、自分のことは二の次だったような気もします。
エドは自分の手足に関して取り戻したいとはあんまり思ってなさそうだった。実際戻ってないし。
エドもアルもお互いのために賢者の石を求めていたんじゃないかな。

●記憶=過去

過去は普通変えられない。
過去を受け入れるなら、エドの腕と足は戻らないし、アルの身体は元に戻らない。

逆に言えば、それが元に戻ることは過去を否定することで、過去がなくなること。

そんなふうに思います。

だから、アルは身体を取り戻したとき10歳の身体だったし、人体錬成をした以降のエドと旅をした記憶も失った。
文字通り過去がなくなっているのです。

じゃあ劇場版でアルの記憶が戻ってきたのってどういう意味なんでしょう?

記憶=過去なら、アルは過去を受け入れたってことか?

あるいはアルがパラレルワールドに来たことで錬金術が使えなくなって、元の世界での等価交換(実際にあるかどうかは別として)が成り立たなくなったのか?
だから記憶が戻った?

錬金術を使えなくなることは、等価交換の法則から解放されることでもあった、みたいな。

シャンバラを征く者を初見の時は、正直アルがエドと同じくパラレルワールドで生きていくことになるのが実は不満でした。
でも今はそうでもないですね。
アルは過去を失って、子どもだったから。
子どもはわがままを言っても許されるから。
そのわがままが通ってしまったなら仕方ないです。

●ロイ・マスタング

●大人であるということ

このアニメの大人代表といえばこの人ですかね。
マスタングは自分が大人であるということを物凄く意識してる気がします。
自然に大人なんじゃなくて、大人でいようとして大人でいる。

48話の車の中でのエドとマスタングの会話
「大人のフリして飲み込んだ悪を吐き出す。お互い、子どものように自分の思いに忠実に生きようとしているのだ」

「大人のフリして飲み込んだ悪を吐き出す」
ってのは、エドだけにかかってると思います?
それともマスタングにもかかってると思います?
私はマスタングにもかかってそうだなあと思います。
マスタング大佐も大人のフリをしていた。

●なぜエドとアルに拘るのか

マスタング大佐は割と大人ポジションの主人公とも言えるぐらいだけど、心情描写自体はかなり抑えられています。
他キャラのセリフでなんとなく推し計る、っていう描写ですよね。

25話、ホークアイ中尉のセリフ
「お気づきじゃあ、なかったんですか? 大佐はあの兄弟のこととなると、冷静な判断力をなくされることがあります」
今思ったけど、大佐は自分でそれに気づいてなかったの?

なぜマスタング大佐はエドとアルに拘るのか、とか、なぜ国家錬金術師になるように勧めたのか、とか、全然わかってないです。
どっかで言ってた? 見逃した可能性あるかな……

エドとアルを自分の保護下に置く理由はなんとなく、昔の自分のように理不尽な命令に従ってほしくないからだと勝手に思っています。
だから自分の下に置く。

でもこうなると国家錬金術師になるように勧めるのは、大佐のエドとアルを守りたい心情と矛盾する気がするんですよね。

なんにせよ、なぜエドとアルに拘るのか、とか明言されていないからこそ、その余白にめちゃくちゃマスタング大佐の人間性を感じます。

●保護者

エドとの関係の変化は物語の中でかなり重要です。
マスタング大佐はエドの何かって言ったら、保護者なんですよ。エドの親代わり。
こう言っちゃなんですけど、

めちゃくちゃ良い人なんですよね。

ちゃんとした大人です。
不器用でエドに心配が伝わっていませんが。

マスタング大佐の不器用さを見てみましょう。
16話でのヒューズ中佐によるマスタング大佐からの伝言です。
「事後処理が面倒だから、私の管轄外で死ぬな」

めちゃくちゃ心配してる〜。
「気をつけろよ」って言ってやれば良いじゃないですか〜。

というかファンタジーみたいな世界観なのに大人がまともです。ちゃんと大人が子どもを守ろうとしている。
フィクションの中ではダメな大人が多いので、見ててびっくりしましたよ。

大人がまとも!

大人がまともでも物語は動かせる!

マスタング大佐は大人ポジションの主人公と言いましたが、活躍の場面も非常に弁えています。大人なので。
終盤の地下都市の劇場にいるホムンクルスは子どもばかりですが、キング・ブラッドレイ大総統は大人なので、ここにはいません。
彼を倒すのは大人であるマスタング大佐です。

弁えておいでですね。マスタング大佐。
さすがマスタング大佐。

子どもには子どもの、大人には大人の戦いがあると弁えていますね。
マスタング大佐のキングブラッドレイとのバトルは超カッコいいです。

大人として子どもを守りつつ、しかし子どもの世界に必要以上に干渉せず、子どもの戦いに邪魔な要素には対処する。

大人の活躍のさせ方として理想形じゃないですか?

●子離れ

マスタング大佐はエドとアルのこととなると冷静ではいられない。
劇場版でエドが消えてしまい、マスタング大佐は腑抜けになってしまいます。

ハボック「大佐が待っているのは中尉じゃない気がする」

これはエドってことでいいんですよね?
いや、どんだけ心配……
まあそりゃあ心配か。
生きているか死んでいるかもわからんなら心配だわ。

まあ、そんなマスタング大佐(この時もう大佐ではない)も子離れします。

門が開き、エドと出会った後の会話、
ロイ「どうやらこの厄介は、おまえが運んできたらしいな。
エド「いきなり嫌味かよ! しっかしその眼帯、似合わねえなあ」

ロイ「生きていると思ったよ(微笑む)」

生き生きしていますね。
エドが生きているとわかって、マスタング大佐はもう満足なんです。
自分が守らなくていい。
近くにいなくてもいい。

二度と会えなくてもお互い元気でいれば万事オーケーなんです。

たぶん私がアルに求めていたのはそういう結論だった。
別に一緒にいなくてもよくない?
離れていても元気でいてくれたら充分じゃない?
って。
そこの不満はマスタング大佐(だから大佐ではない)が晴らしてくれたかな。

アルはまだ子どもでわがままが許されるけど、マスタング大佐は大人だから子離れしなきゃいけないんです。

マスタング大佐はその辺りの結末にも満足しましたし、過去の弱い心情を見せつつも大人のまま変化していったキャラだと思います。

●リザ・ホークアイ

●心情描写は少なくてなんぼ

ハガレン旧作で1番リアルな人間味を感じるのはこの人かもしれない。

風花雪月の感想でも言ったんですけど、キャラの心情描写は少なくてなんぼです。

その方がキャラに実在感が出るし、心情の余白を好きなように想像して勝手に好きになれるから。
その理論が働いて私も勝手に好きになってます。
余白に勝手に人間味を見出してる。

ちなみにこういうキャラクターが成立するのは、キャラの背景がめちゃくちゃ作り込まれているか、同作品内に心情描写が凝りまくったキャラがいる場合です。
ただ心情描写を少なくすればいいというものではない。

ホークアイ中尉の心情描写って、セリフが1あったら裏に9の心情があるって感じがします。
そのぐらい表に出てくる心情が少ない。

ホークアイ中尉、マスタング大佐に恋心の欠片ぐらいはありますよね?
私はあると思っています。
なんならマスタング大佐もありますよね?
わかっててお互いにそれを無視していますよね?
私はそうだと思っています。勝手に。

●ホーエンハイム

●だいたいこいつのせい

考えてみたらだいたいこいつのせいです。
賢者の石作ったのこいつだし、エンヴィーを捨てるし、自分の子どものそばにはいてやらないし。
割と親としてアレだよなあ。

それはそれとしてキャラとしてそんなに不快感はないです。
描写がさっぱりしてるからか?
ダンテに熱烈なラブレターを送ったり、ロス少尉を口説いたり、もともと惚れっぽい人なんだと思う。

●エドは普通に親父が好き

アニメ終盤でホーエンハイムがロス少尉と話しているのを見てエドがブン殴る場面が好きです。
この後「クソ親父!」って言うんですよ。

エドがホーエンハイムのことを普通に自分の親だと思っていてなおかつ、複雑な感情もあるとわかる場面です。
ホーエンハイムがいなかった期間って明示されていましたっけ? 10年以上って言ってたっけか。
それを殴りにいけるんですよ。エドは。
他人はいきなり殴れないけど、親なら殴りにいけるんですよ。
やっていることは暴言を吐いて殴ることなのに、エドの親への愛を感じる良い場面です。
エドはなんだかんだホーエンハイムのことを普通に愛しているんだと思う。

49話のパラレルワールドに行った場面、
ホーエンハイム「おまえ、私の息子のエドワードか?」
エド「当たり前だろ!」

「当たり前」なんです。
エドにとって、自分がホーエンハイムの子どもであること、ホーエンハイムが自分の父親であることは当たり前なんです。

●愛してやればよかったのに

「私は、等価交換が真実でないと知りほっとしている。何かを得るために必ず代価が必要だとは限らない。親が子どもを愛する時、そこに代価も報酬もありえない」

そう言うならエンヴィーのことも愛してやればよかったんですよ。
怪物だろうと自分が生み出したものでしょう?
愛してやればよかったんです。

そんなホーエンハイムはエンヴィーに憎まれ、龍になったエンヴィーに噛まれて死にます。
ふさわしい最期です。

ホーエンハイムのエンヴィーに対する親としての不実は、エンヴィーの復讐として返ってきます。

●ラース

●子どもの物語

ラースはねえ。良いキャラですよ。
そもそもホムンクルス周りの設定が良すぎるし、ホムンクルスはみんな良いキャラです。

ラースはホムンクルスの中でも特にエドの子どもらしさを引き出したキャラなのでかなり好きですね。
エドがただの子どもならラースもただの子どもなんです。

エンヴィーとラースはホムンクルスの中でも子どものポジションです。終盤の彼らのエドとの戦いはいわば壮絶な子どものケンカです。
相手を殺しすらしてもいいケンカ。

そのケンカをしてどうしたいって、エンヴィーはエドから父親を、ラースは身体と母親を奪いたい。
ハガレン旧作は壮絶な子どものケンカの物語と言ってもいいです。

ハガレン旧作はそこが面白いです。
最終的に子どものケンカに帰結してしまうところが。
ハガレン旧作はどこまでいっても子どもの物語になる。

●子どものケンカ

エドとラースの戦闘シーンはバトル漫画のそれではないです。見た目は泥臭い取っ組み合いのケンカです。
相手を殺す気ではありますが。
押し倒して腕を押さえる。首を絞める。足で突き飛ばす。
そういう取っ組み合いをしています。

この2人の子どもらしさを強調するためなんだろうけど、こういう部分からラースとエドの間にある種の共感というか、親近感があるんじゃないかと思ったりします。お互い子供だっていう。

実際エドはラースがエンヴィーに突き飛ばされた時に支えたりしています。

エドはラースを人間で子どもだと思っているし、そこに共感がある。

●エンヴィー

●嫉妬と愛憎
エンヴィーというキャラを生み出しちゃうハガレン旧作は凄い。
そのぐらいエンヴィーというキャラクターが凄い。
他のホムンクルスはあんまり名前と性質を一致させる気はないみたいですが、エンヴィーは唯一一致しています。
エンヴィー=嫉妬。
じゃあエンヴィーは誰に嫉妬しているか。

エドなんですよ。

自分を愛さない父親に愛されているエドなんですよ。

凄いキャラだよ! エンヴィーはよお!

エンヴィーはホーエンハイムを殺すために門の向こうに行きます。
「僕は行くんだ。ホーエンハイムのところへ。あいつのところに。父さんのところに!」

この時エンヴィーはエドの姿に変身し、次に龍になります。
エドの姿になったところで、エンヴィーがエドに嫉妬していたことが明確にわかります。

父親に愛されたかったんだな。エンヴィー。
エドに嫉妬していたんだな。エンヴィー。

ところで、エドとホーエンハイムの絡みなんてほとんどありません。しかしだからこそ、2人の親子としての関係の強固さが伝わってきます。
その少ない絡みの中で2人の愛情を描いているのでこのシーンは刺さります。

エンヴィーはエドみたいに「クソ親父!」ってブン殴るだけじゃ済まない。
エンヴィーは父親のホーエンハイムを愛しているけれど、それと同じぐらい自分を捨てたホーエンハイムが憎い。
彼はもう、父親を純粋に愛することはできません。

エンヴィーの存在によって、むしろエドの純粋な父親への愛が浮き彫りになっています。
「クソ親父」と言えど「親父」であることに疑問は持たないし、家族だからホーエンハイムの親としての不誠実をブン殴って諌めることができる。
エドは当たり前にホーエンハイムを愛している。
愛さないという選択肢が浮かぶことすらない。

「親が子どもを愛する時、そこに代価も報酬もありえない」
このセリフは子ども側にも当てはまってるんじゃないかと思います。

エドは自分たち家族から行方をくらましたホーエンハイムを愛しているし、エンヴィーは自分を捨てたホーエンハイムを愛している。
そこにおそらく理由はないと思います。

●エンヴィーはホーエンハイムを殺したかったのか

門の向こうのパラレルワールドでエンヴィーは龍の姿で登場し、ホーエンハイムを噛み殺します。
この時、ホーエンハイムは自分でエンヴィーの口を押さえています。
エンヴィーはホーエンハイムを殺したがっていましたが、この時本当に殺したかったんでしょうか?

ホーエンハイムがエンヴィーの口を押さえた時の表情の意味がわからない。
この時、エンヴィーは顔をしかめているんです。
どういう感情がその表情になったの?

わかんないです。
どう思いますか?

●美しすぎる演出

テレビアニメの最終話、エンヴィーが門の向こうに行く場面です。
龍になってエンヴィーが飛んでいく場面です。

めちゃくちゃ美しい。

正直、今まで見てきたアニメの中でも1番と言っていいぐらいに美しい。
美しすぎて私泣きますもん。

実際、2周目3周目4周目、私は全部この場面で泣いています。
悲しいとかじゃないんです。
感動とかでもないんです。

美しすぎるんです。

ただあまりに美しい演出だから泣くんです。

ハガレン旧作の演出のレベルの高さを超えるアニメはそうそう無いと思います。
あってたまるか。

●アルフォンス・ハイデリヒ

●キャラの使い方に容赦がない

ハガレン旧作で1番かわいそうなの誰? って聞かれたら私はこいつだと答えます。
え、でもラースもかわいそう。
エンヴィーもかわいそう。
ラストもかわいそう。
かわいそうなキャラ多いな。
というかハガレン旧作はキャラの使い方に容赦がない。
キャラを殺すことに躊躇がなさ過ぎる。
良いことだとは思うけど。

普通アルフォンス殺します?
私なら生かしますけど。
アルをあっちに残して、アルフォンスと一緒に暮らすオチにしますけど。

でもこのアニメは殺しちゃうんですねえ。

アルフォンスを死なせることでエドがようやく自分と世界との関わりに気づくと考えると妥当な結果かもしれません。

アルフォンスがエドを送り出した場面、撃たれた時に浮かべた笑顔が印象深いです。
おまえ、それで良かったんか……
このアニメ、キャラの笑顔を思い出すとだいたい悲しい場面ですね。

●そっくりさんたち

アルフォンス周りというよりパラレルワールドの話。
ロケット開発陣がグリードの仲間たちのキメラの人たちなのが良かったです。
彼らにもこんな充実した日々があったかもしれない。

というかあっち側で酷い結末に遭ったキャラが多かったので、パラレルワールドで別人だとしても普通に生きているのが良かった。
スカーとかラストのそっくりさんとかね。

平凡に生きてくれ。

● フリッツ・ラング

●夢と現実

ハガレン旧作で好きなキャラの上位に入ります。
あっち側ではキング・ブラッドレイはあまり人間性を掘り下げられなかったのでこっちで掘り下げたのかなあと思うんですけど、めちゃくちゃ良いキャラだった。

別人とはいえ、人間性として実はそんなにかけ離れていないんじゃないかと思ったりします。
キングブラッドレイはホムンクルスなので、元になった人間の方がどんなだったかわかりませんが。
キング・ブラッドレイは人間を見下していたし、フリッツ・ラングは現実から逃れられるフィクションに携わっている。
作っているのが怪獣映画なところに、彼の人間嫌いな性質が滲み出ている気がします。
人間じゃないものに憧れていそうな雰囲気がありませんか?

「映画も兵器も、等しく科学技術の賜物だ。ならば私は、映画を作り続けよう。絢爛たる白昼夢を。ありうべからざる、もう一つの世界を」

劇場版がこのセリフでシメられるのがとてもいいです。
ハガレン旧作は私の中でかなり没入感を得られる作品でした。
この作品自体、現実じゃないもう一つの世界ですからね。
それが物語ってものだと思います。
これを聞いた時、「自分、凄い物語見たなあ」ってなりました。

というかこの白昼夢(非現実、非人間)を求めた結果がキング・ブラッドレイとフリッツ・ラングでそれぞれ違ったのでしょうね。

●トリンガム兄弟

●子どもとの関わり

出番は少ないけどいいキャラだと思います。
彼らと関わると、エドの年相応の子どもらしさがよく出ます。

そもそもハガレン旧作はエドと子どもとの関わりが良い味を出しています。
『愛の錬成』に出てくるクローゼ。
ニーナ。
イシュバール人のレオとリックの兄弟。
クローゼやニーナと関わる時のエドは無邪気で子どもらしいです。
レオとリックと関わる時は相手がイシュバール人、自分が軍属であると意識するため、同じ子どもといえど他人行儀です。

関わる相手によって露骨に態度が変わるのが人間味を感じて好きです。

トリンガム兄弟、特にラッセルはある意味で1番エドの心情に近づけたキャラじゃないかと思ったりします。
同じ子どもで錬金術師のキャラってアル以外にはトリンガム兄弟しかいませんからね。
そのトリンガム兄弟の登場回がたったの3話なのが味わい深い。

子どもって、ただ相手が自分と同じ子どもだからというだけで、無根拠な連帯感や親近感を抱くものです。
旅行先で出会った初対面の同年代の子どもと、たった1時間仲良く遊んだことがありませんか?
あれです。

言ってしまえばエドとラッセルの距離の近さは、彼らが子ども同士だからこそ成立したものです。
相手が自分と同い年ぐらいだと知ったら、無邪気に話しかけたりなんかしちゃう。
一応味方であるはずのマスタング大佐たちにはあんなに反発するのに、自分たちの名前を騙る敵であるはずのトリンガム兄弟とはすぐ打ち解ける。
こういうところがエドのリアルな子どもらしさです。

●スカー

●愛していると言いたかった

「俺は……兄を憎んだ。イシュバラの教えに背き、錬金術を学び、俺を生かすために、あの腕をくれたと知ってはいても、それでも憎むしかなかった。エルリック兄弟は、互いが互いのために生きている。兄は弟を、弟は兄を愛している。俺も言いたかった。兄さんに、愛していると」

スカーは兄を愛していた。
しかし自分に賢者の石の腕を残した兄を憎んでもいた。
スカーは兄をただ純粋に愛したかったけれど、それを憎しみによりできなかった。

愛と憎悪という相反する感情に苦しむ。
これはスカーだけのことなのでしょうか?

家族への愛憎と言えば、思い浮かぶじゃないですか。
エンヴィーとラース。

自分を捨てたホーエンハイムを憎むエンヴィーと、不完全な自分を作ったイズミを憎むラース。
でもそれに反して愛してもいる。
愛余って憎さ100倍ってやつかもしれません。

本当は憎みたくなんてない。
ただ普通に愛したかった。
エンヴィーとラースもそうなんじゃないかと思います。
エンヴィーが門を潜った時、「父さんのところへ」って言った時の声、聞きようによっては嬉しそうでもあるんですよ。

エンヴィー、ただ父親に会えることが嬉しくもあったんじゃないかなあ、って思います。
エンヴィーもラースもスカーと同じように、父や母を純粋に愛したかった。
そういう解釈、できなくもなくないですか?

(スカーの話じゃない……)

●エドワード・エルリック

●子どもと大人の境目

エドの言葉や行動は度々矛盾しています。
自分を大人だと言いながらマスタング大佐の大人の論理に反発し、賢者の石で幸せなど得られないと言いながら、賢者の石を求める。
復讐に意味などないと言いながら、ヒューズの復讐に拘る。

言っていることとやっていることが矛盾しているのです。
そういうところにエドの人間らしさを感じます。
そうやって大人と子どもの境目を彷徨っている。

でも、「自分はもう大人だ」と言うより、「自分はただの無力な子どもだ」と気づくことが、ひょっとしたら大人に近づく第一歩かもしれませんよね。

48話
イズミ「大人になったな」
エド「大人? 国家錬金術師になった時、とっくに大人になったと思ってました」

エドは自分はもうとっくに大人になっていたと思っていた。でもそうじゃなかった。
エドはもう自分が子どもだったと気づいている。
気づいた時、エドは大人に近づいたと私は思います。
矛盾しているようですけどね。

●無力な子どもは仔猫一匹救えない

個人的にかなり印象的な回です。
13話の『焔vs鋼』の回、仔猫が出てきます。
アルが雨の中かわいそうだからと拾ってきて、エドは最初、飼えないから元いた場所に戻してこいと言います。
しかしアルの言葉に折れたエドは、国家錬金術師の資格の戦闘査定で自分がマスタング大佐に勝った暁には、大佐がマルコーの情報を渡すこと、ネコを引き取ることを条件にします。
結果エドが勝ち、マスタング大佐はマルコーの情報をエドに与えます。
しかしエドは等価交換だからと言って大佐に仔猫を引き取ってもらうことはせず、最後、豪奢な乳母車を錬成して「ゴメンな。今はこれだけで」と仔猫を雨の降る路傍に置いて行きます。

3周目見た時に思いました。

エドの行動、無責任じゃね?
その乳母車は逆効果じゃね?
仔猫のことを思うなら、無理やりにでも引き取ってもらった方が良くね?

結果的に、こう思ったのは間違っていなかったんじゃないかと思います。
4周目を見てみれば、エドの行動は無責任なものとして描写されているように見えたからです。

この回、マスタング大佐はエドにリオールの内戦のことを伝えませんでした。
ロイ「あいつは一つの街を救ったと思っている。そう思わせておけばいい。いつかは自分で知ることになる」
↑こんな台詞はエドの愚かしさ、無責任さを描こうと思わなければわざわざ言わせません。

エドは自分がリオールを救ったと思っているように、
仔猫に多少良いことをしたと思っている。

でも実際には違います。
エドが関わったためにリオールでは内戦が起こっている。エドのしたことはリオールに良い結果をもたらしていない。
それはきっとあの仔猫にも当てはまります。

あの仔猫、良い人に拾ってもらえたと思いますか?

私は拾ってもらえなかったと思います。
拾ってもらえたとしても、おそらくエドのせいでそのタイミングは遅れた。

あの乳母車は余計な行為だった。
あれじゃあ道行く人に飼われている猫だと思われたかもしれない。
かわいそうな迷い猫だと気づいてもらえないかもしれない。
不要どころかむしろ悪い結果をもたらした。

エドは良いことをしようとしながら、仔猫一匹救うことができない。
そんなただの子どもにひとつの街が救えるか?
救えるわけがない。
愚かで無責任で無力なただの子どもだから。
仔猫一匹救えないから。

等価交換の理屈を信じて、他人に多くの要求をしないのは一見大人な行動に思える。
でもこの場面では、その理屈は良い方向には働いていない。むしろ悪い。

子どもってわがままであることが許される存在だと思います。
あれもこれもと望んで、大人にそれを要求したって良い。それが実際に与えられるかどうかはわからない。どの程度が適切な欲望かはこれから学ぶものです。

エドはマスタング大佐に、仔猫を飼ってくれと頼むべきだった。そうしたって許された。最初にそれを条件に出していたし。
マスタング大佐が飼えないなら、軍の中で飼える人を探してくれたかもしれない。
仔猫を助けたいと思うなら、頼むぐらいしてみるべきだった。

そうしなかったところに、エドの大人らしさと子どもらしさの両面がある。
大人びようとして、結果自分の目的を達成できない。
これじゃあ本末転倒じゃないですか。

エドの子どもらしさっていうと私は真っ先にこのエピソードが思い浮かびます。
仔猫を拾うっていうのが子どもらしくて好きな描写です。
子ども、動物拾っちゃうよね。
拾った時点で責任が生じるのにね。
大人がいないとまともに面倒も見られないのにね。

●子どもの理屈の等価交換

ダンテ「子どもに限って言うものよ。何でも平等にしろとか。それじゃあ不公平だとか。でもね。等価交換なんてないわ」

この台詞が出てくるのは49話です。
実際、この世界の錬金術には門の向こう側の戦争で死んでいく人の命が使われていました。
エドはそれに大きなショックを受けています。

エド「俺はそれでも、頑張ったらそれだけ何かを得られる。努力したら誰でも公平に報われる。代価を払えば平等に幸せを掴める。そんな等価交換を信じたい」
ホーエンハイム「現実は……」
エド「現実はそうじゃない。だから子どもの理屈だというなら、俺は子どもでいい。代価を払っても報われないことがあるなんて、思いたくない」

エドは等価交換を信じたかった。
この言葉から素直に解釈するなら、自分の努力や苦労が何かしら良い結果になって返ってくると信じたかったのか?

これに反する台詞が出てくるのが16話です。
戦争で足を失った老人との会話です。

エド「そうかあ?戦争に行っても平気なやつはいる。それが軍人ってもんだ」
老人「その者たちも何かを失ってきたのだ。たとえ目には見えずとも。きみも失ったものがあるのなら、もう何かを得ているはずだ。錬金術では、それを等価交換と言うんだろう?」
エド「……そんなわけあるか! 俺は……右手と左足を失い、弟は身体全部を失くした。それを取り戻すために、俺たちは必死で生きてる。全てを取り戻す。それが俺たちの夢だ!
代わりに得たものなんて(エドは泣いている)……何もない。何もかも、奪い取られたんだ!」

エドの右手と左足、アルの身体全部の代わりに得たものは何もない。
ここではエドの中で等価交換は成り立っていない。
ひょっとしたらこの会話があって、エドは等価交換を信じるようになったのかもしれません。

エドは自分たちの身体の代償に、何かを得ていると思った。あるいはそう信じたかった。

老人「全てを取り戻す夢。しかし、それが叶ったら、きみはどうする? 叶ってしまう夢など、本当の夢とは言えん」
エド「それでも……それでも俺たちは取り戻す」

エドが代償に得たものって、夢だったのかなあ。

いや、やっぱりわかんないな。

●エドが大人になるために

必要だったのはなんだったのか。
4周目ではそれを意識して見ていました。
で、なんとなくこれなんじゃないかっていうのはありました。まとめておきます。

◇悪を受け入れる

自分の目的を果たすためなら、悪事も受け入れる。自分の手を汚しても構わない。

エドは自分の腕と足、弟の身体を取り戻すという目的のために国家錬金術師になります。
国家錬金術師は戦争になれば前線で敵を殺さなくてはならない。それをエドは受け入れています(表面上は)。
そしてそれは、感情より理性を優先するという意味でもあります。

10話、怪盗サイレーンの回
エド「悪事が必要なこともある」
に対して
サイレーン「だって、大人みたいなこと言うんだもん」
エド「俺は大人だ」

44話、ヒューズ中佐の死を知ったエドとアル
アル「その(軍のトップになる)ためには、復讐なんて個人的な感情よりも、出世の道を探る。大佐は大人だね」

ハガレン旧作のキャラは悪を受け入れることを大人のやることだとしています。
もしそうならエドは国家錬金術師になった12歳の時に大人になっていたはずです。
でもエドはまだ大人になっていない。
だからこの時エドは自分が大人になったフリをしていた。

48話 車の中で話すエドとロイ・マスタング

ロイ「大人のフリして飲み込んだ悪を吐き出す。お互い、子どものように自分の思いに忠実に生きようとしているのだ」

エドは今まで大人のフリをしていた。
本当は悪を受け入れてなどいなかった。
感情より理性を優先することができなかった。

エドは少なくとも大人のように振る舞おうとはしていた。
考えようによってはそれだって大人に近づくことですけどね。

◇世界に対して負う責任

「だけどな……ホントの俺たちは、悪魔でも……ましてや神でもない。人間なんだよお! ニーナ1人救うこともできなかった……ちっぽけな、人間だ……」
8話のエドのセリフです。
エドはこの時自分の無力さを自覚しています。
ただの人間だから、女の子1人救うことができない。

アニメから劇場版のシャンバラにかけて、エドは自分の世界に対する立ち位置を自覚していきます。
そして彼が辿りつく結論は、
「生きている限り永遠に、世界と無関係でいることなんて、できない」
無力な子どもはあまりにちっぽけで、世界の中で動かせることなんて極々少なかった。
でもそんな子どもも世界と無関係ではない。
何かしら影響を与えている。
だから世界に対して無責任ではいられない。
エドの出した結論とはそういうものなんじゃないかと思います。

◇過去を受け入れる

罪を受け入れる、と言ってもいいかもしれない。
これはさっきの世界に対しての責任にも近いと思います。
エドが他のキャラに明確に「大人だ」と言われる場面があるんですけど。

48話 ニーナを抱いたタッカーを見たエドとイズミ

エド「魂のない人形。あれがあの人の罪の形です。それを抱いて生きていくんです。それでいい」
イズミ「大人になったな」
エド「大人? 国家錬金術師になった時、とっくに大人になったと思ってました」

イズミの言うこの「大人になった」はたぶんお世辞や冗談じゃないじゃないですか。
このエドの何が大人なのかと言うと、タッカーが自分の犯した罪を抱いていることを「それでいい」としたから。

これは人の罪、ひいては過去を受け入れるということなのではないか?

過去を受け入れていないといえば、冒頭のエドとアルの人体錬成です。
母親の死を受け入れられず、その過去をなかったことにしたくて人体錬成をする。
自分たちの身体を失ったことを受け入れられず、賢者の石を求める。

16話の元兵士の老人との会話をもう一度見てみましょう。

老人「その者たちも何かを失ってきたのだ。たとえ目には見えずとも。きみも失ったものがあるのなら、もう何かを得ているはずだ。錬金術では、それを等価交換と言うんだろう?」
エド「……そんなわけあるか! 俺は……右手と左足を失い、弟は身体全部を失くした。それを取り戻すために、俺たちは必死で生きてる。全てを取り戻す。それが俺たちの夢だ!
代わりに得たものなんて(エドはこの時泣いている)……何もない。何もかも、奪い取られたんだ!」

「何もかも奪い取られた」と言うということは、エドは自分たちの身に起きたことを理不尽だと感じているということです。
理不尽で、正当な結果ではない、と。
これは過去の否定です。
自分たちの罪の否定。

ハガレン旧作はそんなエドが自分の罪、過去を受け入れていく物語でもあります。
そしてそれが大人になることに繋がります。

だからエドは罪深い。
母を錬成し、アルの身体を失くし、マジハールを殺し、リオールに内戦を引き起こし、仔猫を放置し、グリードを殺し、ヒューズ中佐を巻き込み、パラレルワールドに戦争を引き起こした。

これ全部エドの犯した罪。
覚えてないだけでまだあるかも?

エドはこれを受け入れなければならない。
そうしないと大人になれないから。

だからホムンクルスなんてものが出てくるのです。
ホムンクルスは人体錬成に失敗した人間のなりそこない。
それはまさしく罪の具現化です。
(そういえばホムンクルスの名前の元ネタは七つの大罪ですね)
スロウスはエドが母を生き返らせようとした罪そのもの。それがエドを襲ってくる。
その母をエドは殺さなくてはいけません。
自分の過去の行いに落とし前をつけなきゃいけない。

こうしてエドは過去を受け入れていく。

●大人になる儀式は一度で終わらない

しかしエドが自分たちの身体を失ったことを受け入れたのは、それを代価に何かを手に入れたと思ったからです。
子どもの理屈の等価交換はダンテとホーエンハイムの言葉により否定されます。
理屈をつけて大人になったと思ったら、それを否定されて自分がまだ子どもだと気づく。

エドの身に起こることはこれの繰り返しです。
子どもは一度儀式を終えても大人にならない。
成人式やっても大人になったわけじゃないですもんね。就職しても大人になれないし、結婚しても大人になれないかもしれない。

そんな感じでエドは何度も大人になる通過儀礼をしています。

●エドが大人になったのは

アルフォンスに「僕たちは、あなたの夢の中の存在じゃないよ」って言われた時じゃないかと思います。

エドは門の向こうのパラレルワールドのことを夢の世界だと思っていた。
夢の世界は現実じゃないので、自分には関係ないと。

でもそうじゃないと気づいた。
この世界にも人が生きていて、自分はこの世界や人にに影響を与えている。

エドがこれにもっと早く気づいていれば、アルフォンスの死期ももう少し先だったかもしれないものを……

というかアルフォンスがあまりにもかわいそうすぎる。
このアニメに対してほとんど不満点はないんですけど、数少ない不満点がこのアルフォンスの結末ですね。
病気で近いうちに死ぬんだから、こんな早くに殺さんでもええんやないですか……?

まあ、でもこれもエドの罪のうちの一つか……

●等価交換はあったのか

等価交換の理屈は実際にこの物語の中で成立していたのか。
ダンテやホーエンハイムはないと言っていますけどね。

私が思うに、等価交換とはエドの言う「頑張ったらそれだけ何かを得られる。努力したら誰でも公平に報われる。代価を払えば平等に幸せを掴める」というものはやっぱり成立していないと思います。

むしろこの物語の中での理屈は、

人が何か行動を起こせば、それに対してプラスであろうとマイナスであろうと結果が返ってくる。

そういうものだったんじゃないかと思います。

ハガレン旧作って、かなり因果な物語だと思います。
キャラクターが起こした行動が何かしらの結果になる。

エドはもちろんホムンクルス周りが特に顕著です。
自分が犯した罪=ホムンクルス
イズミやホーエンハイムが過去にやった行動の結果として、ホムンクルスが存在する。

悪いことをしたら悪い結果が返ってくる、っていうのも正当だし、ほんの些細な行動がとんでもない結果を招くっていうのもありえる。
逆に悪いことをしていい結果になることもある。
マスタング大佐は上の命令に従ってロックベル夫妻を殺しています。
しかしそれによって出世できたかもしれません。

そういう意味では行動→結果という等価交換は成立しているのか?

エドのした行動は、必ず何らかの結果にはなっています。
それが良いことだとは限らないだけで。

ハガレン旧作の物語ってある意味で因果応報、かつ理不尽です。

●セカイ系ではない

この物語の特殊さって、結局これに尽きる気がします。
エドがただの人間で、ただの子どもであったこと。
なおかつそのただの子どもが、自分のした小さなことのせいで大きな結果を引き起こしたこと。

いや、エドは天才ではあるんです。
実際タッカーにもとっさに新しい錬成陣を考えついたことに関して凄いと言われている。
でもその錬金術の才能が直接的に世界に影響を及ぼしたことはあまりなかった気がします。

むしろもっと小さな行為が大きな結果として返ってくる。
例えば、エドがロゼに言った「立って歩け。前へ進め」という言葉。
これによってロゼは聖母と崇められることになる。

パラレルワールドでのアルフォンスとの関わり。
エドはいつも別の世界の話をしていて、アルフォンスは彼に元の世界に帰ってほしくて、トゥーレ教会に協力する。

劇場版でのエドの台詞。
エド「おまえは、俺を連れ戻そうとしただけなんだろ? ラースも、きっとそんなおまえな手を貸したかっただけだ。あっちの世界のアルも、俺を戻したいだけだった……ノーアは自分の国が欲しかっただけ……みんな……こんな戦争みたいなもの望んじゃいなかった」
エド「俺たちは、誰も望んでなくても、だけど、この戦いは俺たちのせいなんだ」

個々人の意思や行動なんてそのぐらい小さい。
でもそれが色んな因果によって戦争を引き起こした。

エドの錬金術の才能っていうのはこの物語では、人体錬成をすることと、彼を軍属にする以外に重要な要素としては働いていない気がします。
細かい要素としてはまだいっぱいありますよ。
でもエドの作中の立ち位置って、罷り間違ってこうなった、っていう印象が強いです。

ただの子どもが錬金術の才能に秀でていて、目的を果たすために国家錬金術師になって、そのせいで政治の末端に少し関わるようになって、それが予想外に大きな結果を生み出した。

ただの子どもが錬金術の才能がちょっと抜きんでていたばかりに。
エドの錬金術の才能が彼の年齢、精神の成熟度に対して大きすぎたばかりに。

これだって、周りの大人がいなければ、こんな結果にはならなかったでしょう。
マスタングが国家錬金術師になるように勧めなければとか、タッカーがいなければとか、ヒューズが守ってやろうとしなければとか。

そんな色んな因果で結果ああなった。

特殊な凄い能力を持つわけではない、ただの子どもが世界を変えてしまう。

ハガレン旧作は、起こっていることは大きいけど、セカイ系ではない。
むしろその逆。
エドはこの世界において、何かしら大きな役割を与えられた特別な存在ではない。
ただの人間でただの子どもである、と。

ここまで徹底したただの子どもの主人公っているんだなあ、って思いました。
最終的には戦争まで引き起こした、ただの子どもの主人公。
いや、いるのかもしれないけど、ハガレン旧作の面白さは、最後まで徹底的にエドの人間らしさと子どもらしさを強調したことにある。
細かい仕草や表情、台詞の随所に子どもらしさを滲ませることは、この物語においてはかなり重要だったと思います。

そして門の向こうのパラレルワールドで錬金術を使えないエドは、錬金術の天才ですらなくなって文字通りただの人間として生きていくんですね。

○全体感想

陰鬱な雰囲気と美しい作画。
主人公のエドの繊細な心情描写。
ハガレン旧作は子どもの成長を鬱くしく描いた作品でした。
何度見ても面白いし、何度見ても落ち込みます。
面白いからか演出が良いからか悲しいからなのか、アニメ終盤から劇場版まで6~7回ぐらい泣いてました。

ここまで読んでくれた人がいたらありがとうございます。

おしまい。

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