【短編小説】639億秒目の空/憂杞
639億秒目の空
俺が生まれるとすぐに、〈現世〉にある時計やカレンダーを「見る」よう本能に促された。真っ先にキャッチした視覚にデジタル置き時計という代物と記された数字が映る。
10月13日、午前7時59分33秒。西暦2024年。時計の読み方と書かれていない年数は、視覚の持ち主であるヒトの記憶と思考から把握できた。この複数の数字の並びが、63,900,000,000秒目である俺を現世のわかりやすい単位で示したものらしい。
日本国の普通の一軒家に住む高校生を自認するこのヒトは、いま自宅のベッドから起き上がったばかりらしい。視覚は置き時計からわずかに逸らされ、その奥にある窓という透明な壁越しに一面の青色を捉えた。
色なき色を隔てた先にある、一面の淡い青。どこか清々しい心地を味わう思考を最後に、ぶつり、と現世との繋がりが途切れた。俺が感じ取れる一秒間のうちの一つが終わったのだ。
俺たち〈秒〉は自分が何者であるかも、自分に何ができるかも生まれてすぐに自覚する。俺は一秒である自分たちの途方もない連続――つまり時間によって広大な土地と営みをなす〈現世〉の存在を生まれながらに知った。その上で、〈秒〉は現世に息づく任意の一生物の五感や思考をそれぞれ体感することができる。
ただし、体感できるのは自身の受け持つ一秒間のみ。俺の場合は639億秒目のみの感覚しか知り得ない。その代わり、同じ一秒でさえあれば現世のどこに棲むどんな生物の感覚も知ることができる。草花でも細菌でも猛獣でも小動物でも好きな生物の感覚を覗けるが、俺を含め大抵の秒は、知能が高く自身と体の作りも似ているヒトを覗くことが最も多いらしい。
現世でいう「白」がどこまでも無限に広がり、前後も左右も距離の概念もない異空間に生まれた俺たちは、あらゆる生物の感覚を通じて現世を鑑賞することを数少ない娯楽としている。そして、自身が体感したことを他の秒たちと共有することも。
「ねえ君、639億だよね? ちょっと教えてほしいんだけど」
ぼんやりと白を眺めていたところに、初対面の一秒がいきなり目の前に現れた。よくあることだから驚きはしない。距離の概念をもたない俺たちは、いつでも任意のどの秒とも瞬時にコンタクトを取り合える。
「教えるのはいいが、あんたは?」
「63,817,255,179。君の、えっと、82,744,821秒前だね」
「てことは2年半以上前か」
「お、ざっくり換算。そうそう、教えてほしいのはね……」
82,744,821秒前は自分の秒での事情を掻い摘まんで話した。なんでもある女性が身重らしく未来では無事出産できたか、夫とも仲良く生活できているかを知りたいという。なんとも微笑ましい相談だ。
俺はすぐに現世へ意識を向け、身元を聞いた上で女性やその家族らの感覚を探し当てた。該当するヒトたちを覗くのは俺も初めてだから内心ドキドキしているが相談者には悟らせない。なんとなく悟らせたくない。
ひと通り体感し、もう幾度か反芻したり頭で整理したりしてから、ゆっくりと告げる。
「大丈夫そうだ。まずお子さんはちゃんと生まれて育ってるし、旦那さんともまあ上手くやれてる」
「ほんと? よかったあ!」
「ただ、趣味に金をかけすぎやらで不満は若干あるようだが……」
「えー、それも詳しく聞かせてよ」
案の定食い付かれ、俺と82,744,821秒前はしばらくその家族のことで談笑した。何だかんだ打ち解けそうなほどに好き同士だよなと笑い飛ばしたり、二秒だけでは読み取れない思惑や未来のことで想像を膨らませたりした。
他の秒に自分の体感を伝える手段は口頭かジェスチャーしかない。紙やペンなどといった形ある道具は白の空間には皆無だし、現世でたまにいうテレパシーやサイコメトリなんて異能はもちろん俺たちにはない。
だから例えばここで「旦那の金遣いは荒くない」と騙ることもできたが、そんな嘘は相手が他の秒にも訊ねて回ればすぐにバレるだろう。秒の考えは秒それぞれだ。今や無数に存在し、尚も一秒ごとに殖え続けている未来の秒たちが、全員生優しい奴とは限らない。
それにしても、と俺は断りを入れて、生まれて間もない頃からずっと気になっていたことを82,744,821秒前に訊いてみた。
「あんたみたいに何かと俺に会いにくる秒が多すぎる気がするのだが。そっちや他の奴らも同じ感じなのか?」
ああ、とすぐに思い当たった様子で返答がきた。
「そりゃアレだよ、君がキリ番だからだよ」
「キリ番?」
「知らない? 同じ数字が何個も連続するのは珍しいからって現世ではゾロ目って呼ぶんだけど、それみたいに下の桁に0が連続するのも珍しくてキリ番って呼ばれてんの。何千とか何万とかって数字を言いやすくもなるし。それが君は億だよ? 0が8個だよ? そりゃあ沢山の秒に惹かれもするって」
「は、はあ……そういうものなのか」
あまりに興奮気味にまくし立てられたものだから、気のない返事をしてしまった。俺も初めて知る文化で困惑したというのもあるが、たぶん82,744,821秒前もわりと最近知ったことなのだろう。新鮮かつそそられる知識を他者にひけらかしたくなる気持ちは、友達に嬉々として自慢話をする小学生から体感済みだ。
「色んな体験をして色んな楽しみを見つけてさ。現世って楽しそうだよね」
「そうだな」
「こんなに楽しそうならしたくなっちゃうのもわかるよね、〈失踪〉」
さらりと、思いもしなかった単語が聞こえた。おい、と反射的に怒気を込めた声が出る。
「それだけは駄目だ。掟なんだろ」
「はいはいわかってる、冗談だって。君、お堅いってよく言われない?」
急に先輩めいた口調で返された。ちなみに相手は生まれでいえば確かに大先輩だが、現世でいう上下関係は秒の間にはなく敬うも敬われるも自由だ。
きっと呆れられたのだろうが、俺は俺で気軽に禁忌を口にしてしまえる先輩に呆れていた。
今いる白の空間から抜け出して現世に降り立つことを、秒たちの間では〈失踪〉と呼ぶ。これは以前に他の先輩や後輩から聞いた噂にすぎないが、俺たち秒はその気になれば現世の、自分の受け持つ一秒間のみに降り立ち、そこでヒトによく似た生物として過ごすことができるらしい。もちろん生物を含む現世のモノに触れたり話しかけたりと、今いる空間ではけっして叶わない干渉もできるようになるという。
けれど、あくまで噂だ。一度この場から離れた秒は二度とこちら側へは戻れないともいうし、離れた秒が本当に現世の一秒間に行けたかどうか、他の秒たちは他の秒であるがゆえに知ることができない。だから残された側からすればそれは〈失踪〉以外の何でもない。
ひとつだけ明確に言えることは、その先の未来に直接の影響こそ及ばないものの、いなくなった秒は現世の歴史から抜け落ちて空白になるということだけだ。現世でいう紙芝居で喩えれば、ラストはそのままに最初や途中の数枚だけが歯抜けしたような形になる。桃太郎一行が鬼を倒して財宝を持ち帰るシーンだけが残って他が消えれば、そもそも桃太郎や鬼は何者なのか、桃太郎の行いは正義なのか悪なのか、財宝をとられた鬼はただの強盗の被害者なのかは、観たヒトそれぞれの憶測や妄想に委ねるしかなくなる。秒の失踪はつまりそういうことを意味するのだ。
これは俺が生まれた頃から記憶に刷り込まれていたことだが、はるか大昔に大勢の――信じがたいが639億なんて比にならないほどの大勢の秒が、個々または集団で失踪した例がある。
「あの大失踪の影響で、俺の秒ですら世界史の教科書が何遍も直されたりと混乱が見られた。先輩なら他にもっと多くの被害を知ってるんじゃないのか」
「まあね。でもこうは思わない? たった一秒だけならいいじゃん、って」
「いや、駄目だ」
俺が否定すると皮肉めいた笑みを返されて、この先輩は前例を知った上でカマをかけたのだと察した。
一秒の失踪はその一秒だけの喪失では済まない。たった一秒でもいなくなれば存在するすべての秒がそれに感づき、同情したり、羨んだりする者が現われる。当時に幾百億もの秒がいれば、そのごく一部には同じように行動に移す者もいてしまう。そいつらまで観測されてしまえば自分も、自分もと誘爆のように後を追う秒たちが続出する。その結果が、件の大失踪の大元でもある。秒たちに距離の概念がないからこそ起きた、現世でいう群集心理とやらの現れだったのかもしれない。
「そうだよね、駄目なことだよねえ。でもさ」
82,744,821秒前は笑みを浮かべたまま囁く。
「いずれ僕らも失踪する時が来るんじゃないかな」
「なんでだ」
「だって秒はこんなに退屈なんだもん。現世じゅうの生物の一秒間だっていつかは見尽くしちゃうよ」
「……そうか?」
俺は首をかしげた。秒は退屈だという言い分がどうにもピンとこなかったからだ。
現世にはミクロの世界も含めて無数の生物がいる。秒である俺たちはたまたま親和性がいいだけのヒトのみならず、どんな個体の感覚だって体感できる。現世はいわば途轍もなく巨大な書架だ。アメリカ議会図書館の何倍分と思われる蔵書が眠り、俺はそのすべてを好きな時に好きなだけ読める。さらに多くの秒たちと共有し合うことだってできる。
いくら秒には生物と違って無限の時間があるとはいえ、この有り余った娯楽の数々を消化しきれる未来なんて到底見えない。あるいはこの先輩は、俺より2年半以上も多く現世を読み漁ってきたからこそ退屈と言えるのか。
「まだまだ青いねえ、君は」
ぽんぽんと背中をてのひらで叩かれた。先輩ぶることに憧れでもあるのだろうか。青い、と聞くと、生まれてすぐに目にしたガラス越しのあの色を思い出す。
「じゃ、お互いそろそろ耽溺しよっか。また話そうね」
「……ああ。また」
82,744,821秒前は叩いてきた手をそのまま振り、身を翻した直後に接続を切ったように俺の視界から消えた。その後ろ姿は飛び立つ一羽の鳥に似ていた。
少し、先輩の奔放さが羨ましく見えてしまう。俺はお堅いというより、ただ自分の意思とやらを持たないだけではないかと思った。
現世の一秒間の中でも、空を見るのが特に好きだった。
生まれてすぐの朝方にあの青を見て、その呼び名を知って以来、俺はあらゆる視点から見る「空」に惹かれていった。空は現世の屋外のどこにでもあり、場所を変えて覗けば青だけでなく全く別の色をしている場合がある。例えば同じ日本国の南西の空は、雲とよばれる重たげな灰色を広げ雨を降らせている。
時差によって日本より約8時間遅れているイギリスは深夜の只中で、空は真っ黒になり広い街じゅうに影を落としていた。けれどその闇はどこか心地良く、街並みから溢れだす灯がより綺麗に感じられる。さらにもう7時間ほど遅れたアメリカのコロラド州は夕暮れ時で、空はあたたかい火のような橙色に染まっていた。色のイメージに反してさほどの熱は感じず、見ていてむしろ寂しさを覚えるヒトが多いようだ。俺はその情緒さえも愛おしいと思った。
ヒトの思考や他の秒の話によると、空は場所によって色も模様も違うのに一繋がりで在るという。俺はそのことが不思議でたまらなかった。
空は見上げる生物に様々な感情を起こさせる。清々しくなったり煩わしくなったり、落ち込んだり興奮したり、ホッとしたり嘆いたりと個体によってばらばらな感覚を抱くのに、みんな見るものは同じで見ている秒も同じなのだ。
俺はそんな不思議をどこまでも追究したくて、とにかく沢山の生物から見る空を体感してきた。ヒトはもちろん他の動植物や微生物の視点も多く読み取ってきたつもりだ。けれど、まだまだ足りない。そもそも現世に総勢いくらの生物がいるかも知らないが、その内のまだ一握りも読めていないような心地がする。次はどこから覗けばいい? いったい誰の視点がそんなに足りていないのだろう。
「失礼する」
白の空間で考え込んでいた俺の前に、初対面の一秒が現れる。慣れたものであるはずだった。相手がいかに深刻な顔をしていても。
けれどその秒の目を見た途端、思わず身を竦ませた。切り傷の大きな裂け目のように歪なその両目は、凶器の切っ先によく似た鋭い視線をこちらに向けてくる。
「あなたが639億秒目か」
「そうだけど……あんたは?」
俺は努めて平静に訊き返す。
「私は61,300,000,000。あなたの26億秒前にあたる」
前後のなるべく多くの秒を集めてほしいと頼まれ、俺はすぐに1秒前と1秒後から順に呼び掛けをして回った。ほとんどの秒は渋ることなく応じ、さらに招集を手伝うと何秒もが言ってくれたからお言葉に甘え、手分けしてより多くの秒たちを26億秒前とその連れのもとに向かわせた。
最終的に軽く気疲れしたところで、前後あわせて1億近くの秒を集められた。東京ドーム千個程度なら鼻で笑える規模だ。さすがに呼びすぎたか、と内省しつつ俺も集まりに合流し、言葉を失った。呼び集めた約1億秒はひとところに固まり一斉に相手側と向き合っていたが、視線の先に佇む26億秒前の左右や背後には、見るからにこちら側をゆうに超える秒数が並び立っている。
「もっと呼んだ方がいいか?」
溜め息が出そうになるのを抑えながら、俺は視界を埋め尽くす大勢の先輩方に訊ねた。全員何も答えず、その多くが判断を仰ぐように26億秒前を見る。26億秒前はこちら側の秒たちをゆっくり見渡してから、口を開く。
「いや、十分だ。ありがとう。皆もご足労いただき感謝する」
「……そちらに何秒いるか訊いていいか」
「簡略で悪いが6年余だ。当初はもう8年ほどにも来てもらう予定だったが、混乱を招くゆえ今は差し控えている」
俺は頭を押さえて眩暈をこらえた。
「さて、突然のことで困っている者も多いと思うが、恐れながら話させてもらう。改めて私は613億だ。グリニッジ標準時にして1943年、5月25日8時46分40秒」
その数字の羅列を聞いただけで、あ、とこちら側の数秒から思い出したような声が上がった。26億秒前は真っ先に声を上げた一秒の方を向く。
「そう、1943年だ。あなたはこの年および前後に、現世で何が行われていたか知っているか?」
指名された秒はいかにも自信なさげに答えた。
「第二次世界大戦、ですか」
「その通りだ」
きっぱりとした肯定に周囲がどよめく。第二次世界大戦とは西暦1939年から1945年まで行われたという、現世のほぼ全土を巻き込んだ戦争だ。きっと若い秒はその存在を学校の教科書かドキュメンタリか、年老いたヒトの僅かな記憶からしか知らないのだろう。俺だってそうだ。だから俺だって困惑していた。
「当事者でないあなたたちにもわかるよう先にはっきり言おう。第二次世界大戦は概ねあなたたちの知る通りに実在していた。こちらに集ってもらった6年余は、私も含め皆が戦時中とその前後の秒たちだ」
相手側の6年余それぞれが静かに頭を下げる。改めて彼らを見ると全員が深刻な表情で、どこか沈痛で疲れきったような様子も窺えた。俺が今までに会ってきた直近の秒たちからは決して見ない顔だった。
「我々の願いは他でもない。身勝手な申し出であるとは承知しているが、どうかあなたたちにも我々の体感を聞いてもらいたいのだ。ただ聞いてもらうだけでいい。聞いたのちに何を考えるかはあなたたちの自由だ。とにかく今だけは、あなたたちの貴重な時間を頂戴して話を聞いてもらいたい」
話を聞かせることを身勝手だと思ったことなんてないし、自分たちの時間が貴重であるとも思っていない。それに言われなくても俺たちの考えはいつだって自由なはずだ。これほどまでに価値観の食い違う秒は初めてだった。
それでも口調こそ冷静な26億秒前の必死な頼みに、真っ向からノーと言う秒はこちら側にはいなかった。
その後のやることはシンプルだった。先輩方6年余はそれぞれ2秒1組になって散開し、こちら側の1秒ずつを誘ってそれぞれ話を始める。これを約1億通りローテーションすることで、俺たちはほぼすべての話を聞くことになった。
「1939年9月1日。わたし辺りの時に行われたポーランド侵攻がすべての皮切りだった」
聞くという行為自体はシンプルで慣れたものだ。けれどその話の内容すべてが、俺の思う常識をことごとく逸していた。
「多くの生物が爆撃の犠牲となった」
「ヨーロッパ全体が戦場と化していた」
「そこに暮らしていただけのヒトが奴隷として酷使された」
「ユダヤ人に生まれただけのヒトが迫害され殺された」
先の数秒の話をひと通り聞くだけで、齧った程度だった知識が上塗りされたような心地を覚える。
「パールハーバー基地が奇襲を受けた」
「戦域は世界全土に及んだ」
「空からは爆弾が降り注いだ」
「多くのヒトが重い銃を持たされ」
「多くのヒトがヒト殺しを強要された」
「空はどす黒い硝煙に包まれた」
「多くの動植物が汚染され朽ちていった」
生まれてすぐに自分の時間単位を知る手掛かりが、時計やカレンダーではなく上官の怒号だったという秒もいた。俺はどれだけ幸せな生まれ方をしたのだろうと考えた。
「深夜の空からも赤い火の雨が降り注いだ」
「帰るべき場所も家族も焼き殺された」
「何も食べるものがなかった。喉が渇いた」
「熱い。熱い。溶ける。息が苦しい。熱い。熱い!」
話し中に身を捩らせ泣き叫ぶ秒もいた。より正確に伝えたい体感をわざわざ読み返してくれたのだ。俺が同じ立場なら到底できないと思った。
「空からヒロシマに核爆弾が落とされた」
「ナガサキにもさらに大きな核が落とされた」
「一秒も経たないうちに幾万も死んだ」
「空からは黒い雨が降り注いだ」
「渇きを癒そうと多くがその悪魔を口にした」
「誰もが悪魔に体じゅうを破壊された」
「何人も死んだ。何匹も死んでいった」
「死んだ」
「痛い。みんな死んだ。傷付いた。苦しんだ。殺された」
「戦争は終わった。でも死んだ命は戻らない。死にたいと願う者がまだ大勢いる」
俺たちは6年余すべての話を聞き終えて解散した。本当に、話を聞く以上のことは求められなかった。さすがに居たたまれず毎秒に「話してくれてありがとう」とだけ伝えると、ほとんどが他には何も要らないとばかりに涙を流した。
というより、俺自身が他に何も言えなかった。「つらかったな」なんて返せば他人行儀だし、目の前でのたうち回る相手に「無理をするな」と叱るのは、せっかく決めてくれた覚悟を否定するようで嫌だった。
今まで想像すらしていなかった。綺麗な景色の多くある俺と違って、どこもかしこも絶望ばかりの秒がいるなんて。
周りに誰もいないのが随分と久しく感じるが、しばらくは現世を覗こうなんて気にもなれず、ただ無限に広がる白を呆然と眺めていた。
この何もない空間に皆を引き込めたらいいのに、とぼやく秒もいた。俺は上の空な気分のまま一つだけ、現世の新聞紙を見ているヒトの視覚をキャッチした。
この乱された感情はいつ癒えるのだろうと、我ながら勝手なことを思いつつ目を開けた。
不意に、頭の中で警鐘が鳴った。現世の体感を全くしていない時のことだ。生まれて初めての感覚だが本能的に理解できる。秒のうちの誰かが失踪しようとしているのだと。
大昔の過ちをもとに根付いてきた掟は、それを犯そうとする秒を感知するよう俺たちを進化させたらしい。きっといつかの先輩の冗談交じりとはわけが違う、どうしようもないほどの渇望を伴う場合にこの警鐘は鳴り続く。関わらない選択もできなくはなかったが、わざわざ本能に抗ってまで優先させたい都合なんてなかった。
発端である秒のもとへはすぐに駆けつけられた。あまりにも憶えのある相手だった。他にも大勢の――全員ではないものの見知った秒たちが集まり、地に両手と両膝をついて俯く一秒を見ていた。
「26億秒前……」
俺が呼んでも振り返らず、26億秒前は白が広がる下ばかりを一心に見ていた。まるでその奥に自分にしか見えない何かを覗いているかのように。
「止めてくれるな。掟に反することは重々承知の上だ。それでも私は613億秒目の現世に降り立たねばならない」
顔を覗き込むと、はらはらと涙を流しているのが見えた。そういえば話に対する感謝を伝えた時、26億秒前も同じように泣いていた。
「そのために失踪を? 現世に降り立てるなんて、そんな夢物語を鵜呑みにして歴史を狂わせる気か?」
ヒロシマの惨状を語ってくれた秒が、弱々しく丸まった背中に手を当てて諫める。
「失踪なんて呼び方はよせ! 私の行く先は決まっている」
その腕を26億秒前は乱暴に振りほどく。初めに会った時の冷静で厳かな印象をずたずたに崩し、金切り声でまくし立ててきた。
「私は傷付き苦しむ生物たちへ寄り添いに行く。誰にも看取られず独りでもがき続ける者たちの傍へ行かねばならない! 私のいられる時間はただの一秒でも、たった一秒間だけでも、彼らは慰めをくれる存在を必要としているのだ!」
悲痛な叫びに全員が押し黙る。尚も鳴り続ける警鐘に、俺は頭の中で黙れと叫んだ。
26億秒前の言い分が理想論であることはわかっている。実際には現世に行けたりなんかしないだろうし、もし行けて慰めに回れたとしても歴史は変わらないどころか壊れてしまう。さらに言えば、26億秒前が失踪することで最も慰めたいのは他ならぬ自分自身だ。たかが一秒の癒しがいかに無意味かはきっと当事者が一番わかっている。それでも苦しすぎる感覚を少しでも良いように上書きすることで、自分の体感する痛みを和らげようとしているだけだ。それだけの気休めのために歴史に穴をあけるなんてきっと身勝手だ。
けれど、だから何だ? 26億秒前がいつからどんな地獄を体感し、どんな思いで6年もの仲間と繋がり、どんな覚悟で俺たちに話をしたか、ついさっき知ったばかりの俺たちに止める資格なんてない。
「なんで、リーダー、そんなこと言うんだよ……」
「あ、貴方が行くなら、わたしだって……!」
誘爆が起きようとしている。頭の中がどんどんうるさくなる。
「最後に……ありがとう。私の26億秒後」
急に、26億秒前が俺に顔を向けた。涙はとうに涸れたようで、ひどく悲しげな微笑を浮かべている。
「私の我が儘のために沢山の秒を呼んでくれてありがとう。私たちの痛みを受け止めてくれてありがとう。もうひとつだけ我が儘を言わせてもらうが、あなたたちは可能な限り私たちのことを忘れないでほしい。あなたたちほどの平和な秒になら任せられる」
優しくどこか満足そうな口振りを聞いていた。一方で、増えていく頭の警鐘を聞いていた。
「現世ではかの戦争を生き延びたヒトたちは寿命を迎え、私たちの役目も終わるのだ。どうか、これからもあなたたちの中の平和を大切に思ってほしい……」
「終わってない」
あんたの思いは伝わったと返す前に、警鐘の一部が口から溢れてしまう。
「何が……」
「2022年、2月24日の侵攻から始まって、まだ終わってないんだ」
侵攻、という単語にピンときたのか、地についていた両手が離された。
「……嘘でしょ。あの戦争、君の秒でも続いてるの」
「なんだと?」
遠くに立っていた秒の呟きを聞き、26億秒前はがばと立ち上がった。自分の口から言えなかったことが少し悔しかった。何にせよ、もう後戻りはできない。
ちょうど集まっていた秒たちに当事者は多くいて、大まかに説明する程度なら事足りた。俺たちは26億秒前と周りの全員にも聞こえるように、2022年2月24日のロシア・ウクライナ戦争と、翌年10月7日のパレスチナ・イスラエル戦争のことを話した。もっとも、俺を含めた話者の全員が、現場での体感まで語ることはできなかったが。
「なぜだっ!」
26億秒前はあらぬ方を向いて慟哭した。周りにも蹲ったりすすり泣いたりする秒がいて、俺は一緒になって話した秒と顔を見合わせた。加担させてしまった、という考えが一瞬よぎってしまう。
「なぜ繰り返す……? 我々の代から学ばなかったのか? 我々の中の犠牲は、我々の存在は皆無駄だったのか?」
さっきまで止みかけていた警鐘が再び鳴り始めた。26億秒前を見ると、案の定同じ姿勢をとって下を凝視している。
「やめろ!」
俺は反射的に声を上げていた。
「なぜ止める? あんな地獄が繰り返されるのは、我々という前例に利益を見出す輩がいるからだろう? 私は根本から間違っていたのだ。戦争の記憶は語り継ぐのではなく抹消すべきだった」
「それは違う! 俺はあんたの存在が間違いとは思わない!」
「ならどうすればいいのだ! 歴史から消える以外に私たちに何ができる?」
何ができるのだろう。現世を覗くだけで干渉はできない俺たちなんかに。戦争を知っていながら目を逸らし続けてきた俺なんかに。
「……祈る、ことなら。忘れずにいることなら、俺たちにもできる」
あまりにも曖昧だと、口に出す前から思った。こんなに脆い答えをひねり出すのに何秒かかったかわからない。
「祈るだと? それが何になる」
「わからない。自分でもなに言ってんだって思う。でもそれしか浮かばないんだ。俺だって当事者なのに戦争のこと、本当に何も知らないから」
どう取り繕えばいいかもわからないから、思ったままを吐き出していった。自分が情けなくて仕方なかった。26億秒前がそっと手の甲を差し出す。いつの間にか俺は両の頬を濡らしていた。
「わかった」
警鐘が緩やかに消えていった。けれど意識しないうちに馴染んでしまったからか、尚も幻聴として少しだけ聞こえてくる。
「私もあなたと同じようなものだ。正解なんてわからない。わからないうちは、あなたたち未来から目を離さない方がよさそうだ」
聞くや否や、全身の力が抜けて俺はへたり込んだ。我ながら勝手なことに安心してしまっていた。26億秒前の失踪が正しかろうが間違っていようが、いなくなられて最も困るのはきっと俺だからだ。第二次世界大戦の記憶が失われることで、目隠しをする元の自分に戻る未来を想像するのが嫌だった。
俺たちはあってはならない傷を見せ合った。この先永遠に消えることのないだろう最悪な傷を。どんな過去もやり直すことができないなら、せめて自分の言った言葉には責任を持とうと思う。
俺は戦争の苦しみを片時も忘れない。これから何度だって終息を祈り続ける。
「ひとつ訊いていいか」
そう問いかけると26億秒前は目を丸くする。ここにきて質問がくるとは思わなかったのだろうが、どうしても確かめたいことがあった。
「あんたの秒にも、青い空はあるか」
「青い空?」
「俺の秒に残っている戦時中の写真はすべてモノクロなんだ。実際の色がわからない。だから教えてくれ」
26億秒前は少し考え込んでから、わかった、と頷き目を閉じた。直後に脇腹を手で押さえ顔を歪ませたが、すぐに目を開けて息を吸う。他の秒が体感をしているところを見ると、一秒は案外短いものなのかと気付く。
少し堪えたように息を吐いた後、26億秒前はこちらに淡い笑みを向けた。
「あったよ。私の秒にも青い空は、確かにあった」
以来、失踪を思い立つ秒は現れず、俺は普段のように一秒きりで白を眺めていた。実際には今までみたく夜頃の空を見る方が落ち着くだろうが、他より前に見ておきたい視点の空があった。その心の準備のために時間を使っていたが、そろそろ大丈夫な気がする。
俺は固く目を閉じた。途端に火薬と生ゴミの臭いが鼻をつき、耐えがたい渇きと空腹と寒さに襲われた。午前2時近くの暗黒の空の下で、感覚の持ち主である子供はこの寝苦しい環境で野垂れようとしていた。家族はみんないなくなった。何もない。暗い。怖い。寒い。苦しい。助けて。寂しい。苦しい。
長い一秒間だった。自分は生きては駄目なのかという思考が、まだ頭に響くようだった。
これ以上何かを体感するのが怖く、目を開けっ放しにして白だけを見ていた。すると目の前に、顔見知りの一秒が現れる。偶然居合わせたのか自分が無意識に呼び寄せたのか、考える間もなく俺は抱きつき声を上げて泣いた。こうして傍にいてくれる存在もあの子供にいないことも、何もしてやれない自分自身の無力さも悔しくてたまらなかった。相手の秒は何も言わず抱き返してくれた。
子供がこの後亡くなったかどうかはわからない。未来の秒に訊くことはできるが、まだ気が引けた。亡くなってしまった場合を知るのも怖かったし、他の秒にあの苦痛を押し付けるような真似をするのもまだ怖い。それに相手が嘘をつくほどに優しい場合は、いずれにせよ真実を知ることはできない。
せめて、朝まででも生きてくれれば。そんな考えすら身勝手だと思わなくなるまでには、まだ多くの時間がかかるのだろう。
第二回あたらよ文学賞 一次選考通過/二次選考落選作品
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