ぼっちごっこ

不機嫌な午後三時に書きました。隠しておきたい感情に歯止めが利かない日。

「ごめん、待った?」
あ、また違う香水だ。香織は志づの顔を見向きもしないでそう思った。左手に馴染みすぎた革の腕時計を確認すると、約束の時間をきっかり5分過ぎていた。いつもそうだ。彼女はほんの少し、いつもほんの少しだけ遅れてくる。時間だけじゃない。あらゆることをほんの少しだけずらしてくる。気に障る程でもなく、かと言って心地の良いペースでもなく、絶妙な具合でほんの少しだけずらしてくる。またか、そう心の中で呟く。
「ううん、平気よ、ちょうど来たところだから。」
「本当?香織は優しいからまた嘘ついてるんじゃない。」
 ずらされた感情に気づかないふりをしてそう答えると、志づは、鼻にかかる甘ったるい声で覗き込んできた。相変わらず呆れるほど可愛い。小さくついたすっとした鼻も、誰をも惑わせるような色っぽい目つきも、ぼってりとした唇も、色素のない真っ白な肌も、どれもこれも工芸品のようで溜息がでる。
「相変わらず、志づは可愛いね。」
「何言ってるの、もう。香織も相変わらず綺麗で、羨ましいよ。」
またか、そう思う。カチと音を立ててずれていく。思ってもいないくせに。白々しい。そんな乱暴な言葉をかけたら、この子はどんな顔するかな。
「雨、ひどかった?私が着いたころに降りだしたみたいだったから。」
「ん?大丈夫。傘借りたから。」
そう言って髪の毛についた水滴を小さな指で払う。この間までキラキラしていた爪は短く切りそろえられており、化粧っ気がない。ふと視線を落とすと、志づが持つには随分と不格好に大きな黒い傘が足元にあった。あ、男かな。咄嗟に口に出そうになり、慌てて先に頼んでいたジントニックを口へ運ぶ。
「そっか、良かった。夜になったら雪になるかな。」
「どうかな。でも、外は確かに寒かった。みて、鼻また赤くなってるでしょ。」
「ん、末摘花ね。」
「また、そうやってからかって。」
顔を思いっきりくしゃりとさせて笑った。彼女は、いつもこんな風に笑う。こんな風に心の底から笑う。心の底からありがとう、心の底からこんにちは、心の底から大好きよ、といった具合に。その笑みをみて好きにならない人はいないだろう。「かわいい」なんて、結局全て幻想。誰でも欠陥を持っていて、それを隠すかのように生きていると言い聞かせているのに、彼女を見るたびに、欠陥を持ってるのは私だけなのではないかと疑いたくなる。みんなどこかで幸せで、どこかで不幸なはずなのに。けれど、たまにふっと脳裏に浮かんでくる。この隣に座るとびきり可愛い彼女と入れ替われたら、どんな風に世界が見えるのだろう。もっと色彩がはっきりしているのだろうか。優しいことを考えているのだろうか。盗みたい、この子の全部。みんな誰かになりたがっている。自分じゃない、名もない誰かになりたくて必死で前に向かっている。
「ところで、今日はどうかした。何かあった。」
目の前に志づが頼んだカシスオレンジとオリーブがコトリと静かに置かれた。黒い実が2つに緑の実が3つ。彼女は、黒いオリーブ苦手だから、私が食べることになるのだろう。口の中でしつこく残る黒いオリーブ。嫌いなのに。
「別に何でもないんだけど。何だか香織に会いたくなっちゃって。」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん。そういえば香水変えた?」
「え、あ、そう。たまたま今日入ったお店のフレグランス。」
ほんの少し罰悪そうに、カシスオレンジを口に運ぶ。あ、もらってきたのか。黒い傘の持ち主から。ほんの少しムスクの効いた、砂糖菓子のように甘いこの子には似合わない香りを。素敵な香りね、と言いそうになったが、咄嗟に唇の両端を均等に持ち上げた完璧な笑みを作った。魔が差すとはこうゆうことかもしれない。
「珍しいね。あの人?」
「え?」
「そういえば、あの人からもそんな香りしたなって。」
「そうだったかな。」
「忘れちゃったの?好きだった人の香り。」
 俯く志づに意地悪でいやらしい言葉を重ねるうちに、いつも感じていたずれが、少しずつ元の場所に戻っていくような気分に侵される。この子の弱いところを突いて、優越感に浸ったところで、次の日、この子みたいになれないことぐらい分かっている。けれど悪意のある羨望は、栄養の様に心の中に染みわたっていく。絡み取られていく正常な感覚。不安定な恋愛をしている彼女と、長く恋人がいる私。彼女は、恋愛で私とバランスを取っている。この子に素敵な人が現れた時、ちゃんとおめでとうと言えるだろうか。
「ずっと前に好きだったの。だから、そんな風に言わないで。」
志づは、静かに、しかしはっきりと耳に残る声で私の目を見た。あ、またずれた。それも今回はほんの少しじゃない。大きく。いつもなら細く笑って誤魔化す彼女が今回は、しゃんと私に言葉を投げつけた。
「ん、言いすぎた。ごめん。」
 習慣の様に感情のない謝罪が口から零れ出る。もう無理かな、そんな言葉が頭をよぎる。やっと、この子の親友から、お友達ごっこから解放されるのかな。
「うん、許してあげる。だって、親友だもん。」
仕方ないなと言うような顔で小首をかしげた。好きでもない、でも嫌いじゃない。いつも向けられる絶大な信頼ととびきりの笑顔。いっそのこと大嫌いと言ってくれればいいのに。どうしてこの子は、こんな汚い私を親友だなんて呼ぶの。なんで好きなの。私を放して。
 虚しさなのか、はたまた妬ましさなのか、心についた垢がこすってもこすっても取れない。白か黒か、右か左か、女か男か。その中間すらもなんだか違うような。寂しさと狂気の境目にあるような、味のない気持ちがゆっくりゆっくり侵入する。けれども、抗えないのだと確信する。

Fin

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