染まる
まだ田舎の実家で暮らしていた頃、わざわざ花を見にレジャー施設へ行く都会の人々のことをあまり理解できなかった。いくら自分の住んでいるところが山の中すぎるとはいえ、そんなに花を見に行きたいものだろうかと思っていたのだ。大都会ではないにせよ、歩いて行ける距離にコンビニがあって1時間のうちに何本も電車やバスが出る市街地に住み始めて数年経った最近になって、探さなければ、あるいは偶然見つけなければ花は目に入ってこないし、探しても結局無くてそういう施設に行く方が手っ取り早いことにようやく気づいた。あんまり花はその辺りに咲かない。
春の訪れを桜とツツジで、初夏の訪れをアザミと紫陽花で感じ、真夏にはとうもろこしと一緒に佇むひまわりが、暑さが落ち着けばコスモスが咲いた。毎年同じ場所で咲いた。
田舎を出てから人はあまり野花の名前を知らないということを知った。道端に咲く花のことを「名前の無い花」と言ってしまう冷たさを感じた。そう思っていたことを、最近少し忘れていた。
あんなに嫌いだった地元のことが今は少し好きなのも、もう住んでいないから、当事者ではなくなったから他人事になっているだけなのだ。ふと、自分がせかせかしている都会の雰囲気に染まりつつあることを実感する。
今住んでいる街は繰り返すが大都会ではない。でも田舎だと揶揄するには都会すぎる。限界集落みたいなところでずっと暮らしていた私が変わるのに充分すぎる程度には。
道路沿いに咲く花をじっと立ち止まって眺めているのと、土手に座って花々を眺めているのとではなんとなく前者の方が”変わった人”に見える。そんなに好きなら見にいけば良いじゃん、なんてそれこそ思われてしまいそうだ。
都会の人になりきることはできないけれど、それでももう地元に戻りきることもできないのだと思う。この先ずっと中途半端に染まったまま生きていくのだ。自分が育った場所と住む場所のギャップをずっと感じながら。
地元の集落は近い将来消滅する(と予測されている)らしい。帰る場所がなくなったら、完全に都会に染まってしまうだろうか。都会に生まれ育たなかったが故に見えなかったもののことはきっとこれから見ることができる。だから田舎に生まれ育ったが故に見えていたもののことは握りしめていたいと少しだけ思う。
もうすぐ誕生日だ。
田舎で過ごした時間と外で過ごした時間が入れ替わるのにはまだ時間がかかる。地元に戻らないという選択をしつつも、地元にいた時のことをなんとなく忘れないでいたいという、矛盾した残酷な気持ちだけ抱えたまま少しずつ違う色に染まってゆく。
気が向いたら、どうぞ。そこまでの感情にさせられたなら嬉しいです。