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さよならだけが人生ならば

寺山修司さんの詩に、「さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう」というとてもやさしくて、それでいて力強い一節がある。

きっと人生の意味は、さよならに付与されてしまう。今に意味なんてないけど、終わることに、それだけに意味がある、そう思っている。少なくとも、私は。
だけど、さよならに意味があるって思ってしまうのってつまり、そうやってめぐり会った日がずっと繋がって意味になるっていう、そういうことなのかな。

私は終わることを心待ちにしている。生きる意味なんてないなと思っている。今、どうして生きてるんだろうとか難しいことは考えたくないから。私は終わらなければ意味がないと思って生きています。長生きしたくないとは思うけど、だからといって人生に意味なんてないからもう終わりにしたいとは思っていない。

今はたぶん、そうやってめぐり会った日のこととか、自分の最後に、終わるときに、さよならをするときに、これを意味にしたいなと思えるものを探しながら生きてるんだと思う。
生きる意味について私は考えたことないし、今特にそういう確固としたものが心の中にあるわけじゃないから、弱いから、そうやって生きてる。これからもやめないと思う。今に意味なんてない、これに尽きる。

もちろん、生きる意味が自分の中にある人、いいと思う。強くて素敵。さよならを人生にしない人、強いな。ほんとうに。

さよならだけが人生ならば
私の今はたぶんそこに繋がっているだけ
今に意味なんてないけど、さよならの時にちゃんとそれは意味になるかもしれない。ね、

さよなら。

気が向いたら、どうぞ。そこまでの感情にさせられたなら嬉しいです。