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逝く命、来る命

千切りスライスの人参をレモン汁とメイプルシロップで和え、クミンシードをパラパラと振りかけただけの簡単なおかずというかおつまみ。それをここ一年くらい、時々作っている。申し訳ないくらいシンプルだけれど、「また食べたくなる」美味しさ。浸透圧で人参自体の水分が出てしんなりとなるその食感。クミンシードに誘われる旅情。メイプルシロップによって逆に引き出される人参自体の甘み。いや、そんなディテールは実はどうでもいい。この人参サラダはAさんと私をつなぐ、ほぼ唯一の糸、という点こそが、今となっては最大の「意味」なのだ。

地元チューリッヒのコーラスグループに思い切って参加するようになってからもうじき二年になる。いつも何らかの形で音楽と関わっていたい、けれどここ数年、手首や腕の故障でピアノの練習もままならない、だったら歌を。そうした思いがあったのは事実だけれど、それよりもっと大きなモチベーションは、何とかこのスイス社会の片隅に小さな居場所を見つけたい、という長年持ち越してきたいわば悲願達成の突破口になるかもしれない、そんな淡い期待だったかもしれない。

恐る恐る始めてみたところ、これが存外楽しいのだった。主にドイツ語、時にラテン語や英語などの歌詞を上手に音符に乗せていくことは、想像以上に難しいことだったし、社交下手で口の重いスイス人の団員たちとの交流は想像通りの高いハードルだったが、歌うことはシンプルに楽しかった。綺麗な、あるいは時に不思議だったりぞくっとするようだったりする和声の連なりに「参加」することもエキサイティングだった。

5人以上の集会が禁止となった三月半ばより、だがそのコーラスも長期のお休みに入った。数多あるグループ活動の中でも、とりわけ「感染リスク度の高い」コーラス。再開の目処が立たぬまま、ひと月、またひと月。二ヶ月以上たったあたりからようやく週一回のズーム練習が始まったけれど、何しろ時差が相当あるのでみんなで一斉に歌うことができない。指揮者以外の全員がミュートにして、つまり自分の声しか聞こえない形の合唱練習。何もないよりはいいけれど、ああやっぱり対面で歌いたいなあとの思いは私だけではなかったはず。スイスのロックダウンが大幅に緩和された6月半ばにようやく久しぶりの対面リハーサルが再開した時は、だから誰もがとても嬉しかったに違いない。

といっても飛沫予防のディスタンスをキープするため、普段の練習場よりずっと大きな場所を新たに借り、最初は二パートごとに分かれての練習。もちろん入り口には消毒液が置かれ、頻繁にとる休憩時には全員が外に出て窓を大きく開け放っての換気。さらに高齢や持病等、リスクグループで対面練習したくない人のためにズーム参加も併用。まさに2020年バージョン・新スタイルでの再開だ。

以来、3回目の練習となるその日。

「実は、今日はみなさんに悲しいお知らせがあります」

発声練習に先立ち、指揮者のアンナが神妙な面持ちで言う。ポツリ、ポツリと3メートルの間隔を開けて大きな円状に座る団員たちが、揃って固唾を吞む気配が伝わってくる。

「団員のAさんがお亡くなりになりました」

重たい沈黙の波がその場をうねった。雷に打たれたような、という言葉はこういう時のためにあるのだ。

嘘でしょう。何それ? どういうこと? まさかコロナ? 頭が混乱する。言葉の意味がわかっても、内容がつかめない。心臓の鼓動が勝手に速まる。

その日の午後、アンナの自宅の郵便受けにAさんの家族から一通の手紙が届いた。封の中から出てきたのは、思いもよらぬ「訃報」。そしてそこに書かれていることから察するに、その6日前、中央スイスの山をハイキングしている最中に心臓発作で亡くなったということらしかった。ちょうど一週間前にはコーラスの練習に生き生きとズームで参加していたAさん。亡くなったのは、だからその翌日だったということになる。

アンナがしたためた手書きのお悔やみカードが団員たちの間を回覧されていく。文面に目を通し、余白に各自が署名する。ご家族からの通知も一緒に回覧されたが、そこには彼のフルネームに続き、生年1949年とあった。私がなんとなく想像していたよりいくぶん高齢だったことがわかった。ああ、だから再開後も練習はいつもズーム参加だったのだろう、きっと、と合点がいった。

翌週は再開以来初めて全パート揃っての練習となったが、アンナの提案により、冒頭、全員起立でAさんのための一分間の黙祷を行った。先週と同じく、3メートル間隔で大きな輪になった十数人が、目をつむり、それぞれの思いを込めて黙祷する。その静寂の中、声にもならぬほどの小さな声が二度、いや三度だったか、聞こえてきた。「く、く、」というその音は、団員の一人、私と同じアルト・パートのサロメが、コロナロックダウン中に無事出産した赤ちゃんの声だった。きっと母乳育児中だから練習にも連れてきたのだろう。抱っこ紐の中から外界に向けて発せられた、生後二ヶ月の可愛らしい声。それは生まれてくる命と逝った命との間に交わされた親密な対話、あるいは、逝った命に手向けられた新しい命からの厳粛な祈りのように私には聞こえた。

あれは昨年の夏休み前の最後の練習の日だったろうか。練習が引けた後、ささやかな持ち寄りで「打ち上げ」の会が開かれた。私が持参したクスクスサラダの隣にAさんの人参サラダが並んだ。それ以外にはサラミとチーズのお皿、それに焼き菓子が二、三種類。赤ワインとビール。ミネラルウォーターのペットボトル。スイスで「ささやかな持ち寄り」という場合、本当に驚くほど「ささやか」であることが多いが、その日もまたそんな具合だった。

「これ、どんな味付けなんですか?」

取り皿によそったその人参サラダがとても美味しかったし、それまで自分が作ってきたのとも、パリのお惣菜屋さんでよく売ってるものともどこか違う味だったので、勇気を出してAさんに尋ねた。勇気を出す必要があったのは、いつまでたっても不得意なドイツ語の環境では、いつもちょっと萎縮して、借りてきた猫のように大人しくなりがちな情けない私だから。

「レモンとメイプルシロップですよ」

「それだけ?」

「そう、それだけ。あ、あとはクミンシード」

へー、そうなんだ。塩も入ってないんだ。

Aさんの塩なし人参サラダがすっかり気に入って、だからそれ以来、何度も真似して作った。

二年も一緒に歌ってきたのに、挨拶以外で個人的にAさんと言葉を交わしたのは実はその打ち上げの日、一度きりだった。練習中のテノールの席がアルトの席から一番遠かったせいもあるかもしれない。いつもニコニコと穏やかに笑い、高音を歌うとき、たぶん力が入ってしまうのだろう、顔が少し赤くなるAさんだった。

Aさんに最後に会ったのはロックダウン直前、三月初旬のコンサートの時。コロナのことはもちろん誰もが知っていたけれど、それがまだ他人事だったあの日。会場の教会にお客さんたちが普通に隣り合って座っていたあの日。私の隣で臨月間近のお腹を抱えたサロメが歌っていた日。みんなで楽しく声を重ねたあの日が、遠い遠い昔のことのように思われる。

合唱で長年テノールを歌っていた、ということ以外、Aさんのことを私は何も知らない。1949年から彼が歩んできた人生について、私は何も知らない。71年のその人生で一度しか言葉を交わしたことのないAさんのサラダを、だがこれからも私は作り続けるだろう。そしてそのたびに、Aさんのことを、そして生後二ヶ月の赤ちゃんの「く、く、」という声、ささやくような小声なのにフレッシュで力強い生命の塊みたいに聞こえたその声を、きっと思い出すに違いない。

サラダのレシピを伝授してくださって、どうもありがとうございました。また一緒に歌える日まで、どうぞあちらでお元気で!

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