誅仙 第一章(プロローグ)

青雲山脈が中原の真ん中に高く聳え立っている。
その背後には“洪川”という大河が流れ、山のふもとには“河陽城”という城市が中原の重要な位置を占めている。
長く連なり、起伏に富む青雲山脈には七つの最高峰がある。
その山々は雲に隠れるほど高くそびえ、いつもはたなびく白雲が山の中腹にまで及び、山の全容を知ることはできない。
青雲山脈はうっそうとした山林におおわれ、大瀑布、奇岩、様々な珍しい生き物が多く存在し、その景観の壮大さは、天下に名だたるものがある。
だが青雲山の中で最も有名なものとは、山上で修業している“青雲門”という流派であろう。

青雲門の歴史はとても長い。
青雲門はその始まりから今に至るまで二千年以上になる。
青雲門を創始した祖師はもと占い師であったが、その半生は志を得ず、鬱々としたものであった。
49歳になり、彼は四方を放浪するうちに青雲山に至り、その景観の壮大さを目にすることになった。彼はさっそく青雲山に登ることとし、野宿を重ねながら、仙人の修業に励んだ。
しばらくして、彼は青雲山の深き処の洞窟で名も知れぬ者が書いた古い巻物を手にした。そこには様々な流派の奥義が微に至り細に至り書かれており、その奥深さと力は極めつくすことができない。
占い師はこの奇遇を得てさらに20年の修業を経たあと、名を江湖でなすべく下山した。江湖での試練を経て、彼は江湖に覇をとなえるほどではないにしても、一門の主におさまることはできた。
彼は青雲山上で流派を開いた。例の奥義書の記載する内容が道士の術に近かったので、自らは道士のいでたちをして「青雲子」と名乗ることにした。
後、多くの子弟たちは彼を尊んで「青雲真人」と呼んだ。
青雲子には十人の弟子がいた。
彼は臨終に際しこう遺言した。
「我が人生で学んできたものはそのことごとくが術、とりわけ風水の術であった。青雲山は人間未踏の地、我が青雲門がここを有する以上、青雲門の栄えることは必定である。弟子たちよ、決して青雲山を放棄してはならぬぞ」
十人の弟子たちはただうなずくばかりで、つゆもそれを疑わなかった。

青雲子の死後数百年間、天の定めか、あるいは結局青雲子の術が劣っていたためか、青雲門は栄えることがなかったばかりか次第に衰え始めた。十人の弟子のうち、二人は夭逝し、四人は江湖での決闘で命を落とし、一人は廃人となり、一人は失踪し、弟子は二人だけとなった。
それから50年後、青雲山の周囲では未曽有の大地震が発生し、弟子のうちの一人もその地震で亡くなり、ただ一人の弟子が残された。だが残ったただ一人の弟子も、その素質は凡庸のものであったため以前の栄光を取り戻すことができず、そればかりか例の奥義書の故に外敵の襲来と決戦を招いた。
青雲子が残した“秘宝”がなければ、青雲門などとうに滅んでいただろう。
かかる状態は400年にわたったものの、青雲門に好転のきざしはなく、ほとんど“虫の息”とでも形容すべきものであった。
そして、青雲山の七つの峰々のうち、“通天峰”を除く六つの山は尽く外敵により占領された。そこでは凶悪な盗賊が根城をつくり、四方で強奪の限りをつくした。事情を知らない多くの人は誤解して、青雲門はここまで堕落したのかと考えた。青雲門の子弟は何度も弁解し、心の中では汚名をそそごうと
考えていたものの、力及ばなかったことは、憐れむべきことである。
今にして思えば、この時こそ青雲門で最も苦しい時代であった。
だが今をさかのぼること1,300年前、状況は一変する。
青雲子の技が再び世に現れたのか、あるいは天の気まぐれか。この時、青雲門十一代目の世代から、一人の傑出の人物が現れた。
青葉道人である。
青葉道人はもと葉という姓の苦学生で、その素質は優れていたものの、なかなか試験にうかることができなかった。
後、彼はある縁から青雲門十代目の掌門である無方子の弟子となった。22歳のときである。入門後、彼は一年で無方子の全ての剣術と道術に精通し、多くの弟子の中でも群を抜くものとなった。さらに一年後、師父の無方子ですら奥義を用いてようやく引き分けに持ち込むしかなくなっていた。無方子は驚きかつ喜び、開祖伝来の巻物を彼に渡すと、自分で「何をなすべきか」を伝えた。
そこで彼は通天峰の背後にある「幻月洞」にこもることとなった。
修業は十三年続いた。
幻月洞の門が開いたのは、満月の夜であるという。
その夜は月が高くのぼり、通天峰はとても明るかった。
突然大風がまきおこり、山の後で百里にもとどく雄たけびがした。
それを聞けば誰も変色しない者はいまい。
すると淡い紫色の光が天を衝いたかとおもうと、大きな音とともに、幻月洞がガラリと開き、白髪となった「彼」が現れた。
彼は微笑みながら、ゆるゆると歩いてくる。
人々は驚き、彼は仙人ではないかと思った。
後、彼は正式に出家し、俗人のときの姓の葉と、青雲門の青をとって、「青葉」と名乗った。
出家した日、青葉は師の無方子に別れを告げた。
「師父、私“やるべき事”がありますゆえ、待っていてください。一日で戻ってきます」
そのわけを知る者は誰もいなかった。
その日の夜、青葉は剣に乗ってもどってきた。青雲山の六峰にいた外敵どもをことごとく成敗したのである。青葉道人の道術の強さ、手口の容赦なさはこの時をもって天下に広まり、青雲門の勢いは盛んになった。
一年後、無方子は掌門を青葉道人に譲ると、以降青雲門の事にかかわることをやめた。
青葉道人が掌門となってから、青雲門の勢いはさらに増し、彼の生前中に、青雲門は正道諸派の領袖たる地位となった。

青葉道人は550歳で亡くなったが、彼は一生弟子をとることに厳格であり、彼の直弟子はわずか七人だった。彼は弟子たちを青雲七峰のそれぞれに分置し、彼らに相伝の技を伝えることとした。その中でも主峰である通天峰の青雲観が一門の中心的存在である。
現在、青雲門の弟子は千人近くいるが、優れた使い手はとても多く、その威名は「天音寺」「焚香谷」と並んで当世の三大門派に列せられている。さらに掌門の道玄真人は技、徳ともに優れ、まことに当世一級の人物とみなされている。





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