得体の知れない何者か

ごきげんよう、仮想住人928号です。

今回は友人との会話中に興味深い『立ち位置』について聞かせて貰えたので、書き記していこうと思います。

VRCという特殊環境における立ち位置

仰々しい表現ではあるのだが、VRChat、とりわけ日本人の閉鎖的コミュニティの中では、人間関係としての立ち位置はその人のプレイスタイルから、ある程度『外部評価』によって区分けされるところがあると思う。

何かを成そうとして努力しても、何も望まずに過ごしていても、自分以外の誰かの意識によって『この人は〇〇の人』的評価が行われ、さらには副次的にTwitter等による外部SNSとの関係性も含めてその人の立ち位置的なものが決められる世界だと言える。それらは基底現実よりもはっきりと形作られる他者の集合意識によってその人自身を現す記号のようなものであり、個人的には『認知されて初めて存在しうる世界』を実感させる現象だと感じている。

例えば、私のFriendには『HUBの人』あるいは『お父さん的な人』と呼ばれがちな方だったり、『モデラーさん』や『絵描きさん』、『音楽やってる人』等本人がそう名乗らずとも認識され、さらには本人が望んでいるか否かはその場合問われない世界が広がっている。

その中で私の立ち位置はといえば、最近時々言われることの一つに『たらしの人』なんてのがあったりするわけですが…。これに関してはその自覚がないし事実関係が発生していないので肯定はしない。

では、なぜ人は人に対して存在の定義をつけようとするのか。

存在の見える化

以前見かけたいくつかの文章、出典の多くは失念してしまったが、似たような表現をしているものがいくつかある。中でもわかりやすいのは漫画『パトレイバー』の中で表現されていたものである。

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それまで突如として現れて、事件を起こし、存在は認知していても捕まえることが叶わず、正体の掴めなかった謎の『黒いレイバー』。報告の中で対象が書き残したと思われる落書きから、以後その存在を『グリフォン』と呼称する。

このことは、対象が幽霊や都市伝説などの超常的何かや、正体不明の何かではなく、『グリフォン』という名前を持ったれっきとした『レイバーである』ことを意識付け、不必要な不安を抱えず、捕まえられるモノであると認識するために必要な事である。

※レイバーとは、劇中で活躍する人型車両の総称である。

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詳細はズレがあるかもしれないが、概ねこのような話だった。

要は『よくわからないもの』は怖く『存在を認識できるものは不安を減らす』という人間心理の話であり、定義付けしたからと言って即座に対象の立ち位置が変わるわけではないが、しないよりはしていた方が向き合う時の心構えができる。といったもののようだ。

それらが人間心理であるならば、デジタル上の関係であるVRChat、SNSでの他人を何らかの形で『定義付け』することも納得がいくような気がしてくる。誰しも他人に対して不安なまま付き合いを続けたいとは思わないのだろう。

ミステリアスな魅力

ところが、前項に対してまったく逆の『見えないところ』に魅力を感じるのもまた人間というものである。

よく聞くフレーズに『○○さんはミステリアスな所が素敵』などというものがある。存在の見える化を求めていながら、一方では見えないところがカッコイイ!と評されることもある。

結局は程度の問題なのかもしれないが、安心できる距離感での見える化が行われれば、その後は見えない部分を『自分に都合よく解釈できる』見えない部分として魅力を感じてくるのかもしれない。

特に、興味を持った相手に見えない部分があれば、暇さえあればその暗部を妄想しては一喜一憂する経験が誰にでもあるのではないかと思う。極端な話ではあるが、恋なんてのはそれの典型だと言える。そこまでいかずとも、気の合う友人の知らなかった側面が見える時などは嬉しく思うことが多かったりするのではないだろうか。

漫画やドラマを見ていてその後の展開を示唆していた部分を読み解き、後の展開が思い通りになる事も含めて、物事の見えなかった側面について自分の物差しを越える部分がある程度期待している範囲というのは心地のいいものである。

得体の知れない何者か

人に対する『見える化』と『見えない期待』について前提を置いて、ようやく今回の本題である。

以前、VRChatの中で何度か『怖がられる』経験をしたことがる。

いずれも真面目な相談を受けていたり、人間関係について話をしていた時である。

私自身は特段恐怖を与えるような話をしたつもりはなかったし、相手の立場や環境を聞き、理解したうえで現状について話をしていただけだった(はずである)。しかし、相手からは結果的に『怖い』と評されることになったということは、私が何かおかしなことを言っていたのかもしれない。と悩む事があった。

そこで先日、友人たちにそのような事が以前あったと話してみると、意外な答えが返ってきた。

「貴方は真面目だから相手の悩みをちゃんと解決できちゃう事を提示しちゃうんだけど、相手はそこまでの事を期待してなかった。もしかしたらただ聞いて欲しかっただけなのかもしれない」

「あるいは見返りを求めないであまりにも真摯に対応されてしまうから、逆にそれが相手にとって何か裏があるんじゃないかと不安を掻き立てる要素になってるのかもしれないね」

真面目な悩みの相談であるならば、適当な雰囲気の返答ではなく、正しく状況と心情を汲み取り、しかし違う視点での意見を求めるものだとこれまで思っていたのだが…。どうやらそれが『行き過ぎた事』だと言うことらしい。

「仮に自分の場合は、むしろビジネスライクに置き換えてしまう場合がある。真摯に対応するのはそれなりの見返りをちゃんと考えているからだと。そうすることで相手も『そういうモノ』として安心感を得て話してくれる。自分が相手にとって『得体の知れない何者か』にならないようにしている」

つまり、先のミステリアスな魅力で語った『見えない部分』を本人の想定ではなく相手の為に仮初としても定義してあげることで、『存在の見える化』を行っているということだろうか。理解を逸脱する存在、計り知れない何かとされてしまうと逆に恐怖を与えてしまうらしい。

「貴方が『見せていないつもりの事』まで含めて見て、理解して、客観的に理解できる形で表現しちゃうからじゃないかな。なんなら本人ですら気づいてない内面まで読み取って説明しちゃってるんじゃない?全部正しく理解しちゃうから見透かされているような気がして、怖く感じるのかもしれないね」

相手の想定を飛び越えて、『わかってくれる人』から『得体の知れない何者か』になっているのではないかという事だった。

存在を見せること

先の話でもあったビジネスライクな関係に置き換える事は、そういった定義を求める相手にとって確かにわかりやすく、必要な事なのかもしれない。

本意が別にあったとしても、主観ではなく相手の視点での不気味さを薄めるという事は、悪用すれば詐欺や洗脳につながるかもしれない事ではあるが、ある程度薄い関係を求められている場合には都合がいいことも多いのかもしれない。

もちろん、ただただ相手を思って真摯に対応することが悪いことではないし、むしろ道徳的な解釈なら大いに認められることだろう。しかし、現代的な行動としては少々異質であるらしい。

異質とされるなら理解が進まないのも納得できるし、その結果として存在が計り知れず『得体の知れない何者か』になってしまうのも理解できる。

わかりやすい事、というのは現代を生きる上で必要な要素なのかもしれない。

ただ、人を想う事そのものを『わかりにくいモノ』あるいは『不確かなもの』、果ては『下心を隠す建前』などと捉えられてしまうのは少々寂しく感じる。

私の想いという存在が、まっすぐに人に伝わる事を祈りたいと思った。

おわり。

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