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''Spring Has Come''

#この春チャレンジしたいこと

 今年の冬は例年になく寒さが厳しかったように感じられる。私の住んでいる九州北部(福岡県)でも昨年12月の中旬から下旬にかけて二度の寒波が襲来して降雪があり、今年1月下旬には再び雪交じりの強風が吹いたり低温傾向が続いた。折しも光熱費の高騰で節電を迫られ、寒さも一層厳しいものであった。

2022.12.18 九州も雪に覆われる

 それでも、節分が過ぎ、2月も中旬になると地元の太宰府天満宮の紅梅・白梅の開花の便りや知人からフキノトウが届けられたり、自然が春の近さを感じさせてくれる。

 春は気持ちが前向きになりそうだが、学んでいる者にとっては卒業・入学があり、職業に就いている者にとっては異動などで仕事や住む環境が変わったり変化が多くなる。それぞれにとっては気持ちが落ち着かない時期でもある。


 東長寺の節分大祭 開運厄除 (福岡市博多区)


太宰府天満宮紅梅

 さて、自分にとっての春はどのようなものかと考えた場合、人生で経験する前述したような時期は既に通り過ぎ、冬の寒さに縮こまった体や心を春の陽光の下に晒して伸び伸びとして、あと何年心身のバランスがとれて健康で人生を楽しむことができるかを考える、そういう時期でもある。

 とりあえず「この春チャレンジしたいこと=早速始めたいこと」が二つある。

 一つ目は、トルコにあった大帝国オスマン帝国の歴史を知ることである。
 六百年(1299年-1922年)に亘りバルカン半島からアラビア半島まで版図を広げた帝国の歴史が興味深い。

 不幸にも今年2月6日にトルコ南部のシリア国境付近で発生した大地震では、日に日に犠牲者数は増え続け今や5万人以上の人々が亡くなったと報道されている。一日も早くインフラや住宅の復興を願うばかりである。
 建物が無残にも粉々に破壊された状況を見ると「自然」と「人為」の差はあるが、ウクライナの戦禍の街の様子と重なって見えた。

 東日本大震災の際、トルコ政府は日本に対し援助隊の派遣を行っており、今回は日本政府がトルコに対して国際緊急援助隊を派遣した。

 私が注目するのは、日本人にはあまり知られていないが、トルコ国民は日本に対して非常に良い印象を持っているということである。それは、明治時代(1890年・明治23年)、トルコがオスマン帝国の頃にオスマン帝国海軍が11ヶ月かけて日本に派遣され、その帰国の航海中悪天候(9月の台風)のため、帆船であった軍艦が和歌山県沖で遭難して五百人以上の乗組員が犠牲となった海難事故が発生した際の日本の対応にある。

 海難事故があった付近の漁村では、住民総出で荒れている海の中を生存者の救出に当たったという。当時日本にどこにでもあるような貧しい村であったが、住民は食糧を出し合って病気と怪我に苦しんでいた生存者に与えた。
 しかも、その後、明治政府は2隻の軍艦に彼ら生存者69人を乗せてオスマン帝国の首都イスタンブールまで送り届けたという(余談だが、日露戦争での日本海海戦(1905年)の名参謀秋山真之が乗組員の一員であったと驚きの歴史もある)。
 又、民間人でありながら日本各地から集まった義援金を持って首都イスタンブールを訪れた者もおり、オスマン帝国国民は東アジアに興って間もない日本に非常な関心を持った。それから後、小国日本が日露戦争でロシアに勝利すると、ロシアの南下政策に苦しんでいたオスマン帝国の国民は日本の快挙に熱狂したという。

 更に、近年のイラン・イラク戦争の際、当時の日本は法的に自衛隊機を外国に飛ばすことができず民間機も戦火の中、危険を冒せずイラン在住の日本人は出国できない状況にあったところをトルコは日本の要請に応じ、民間旅客機を飛ばして日本人を無事帰国させている(1985年・昭和60年)。
 その救出劇の背景には前述した和歌山県沖の海難事故に対するトルコの日本への恩義があったというから、かつての日本人の真心がトルコ政府を動かし、危険を顧みず決断した当時のトルコ政府の決定があったという。知れば知るほど感動の歴史である。

 なんとも時代を超えて日本との関係も深く、興味をそそられる歴史ではないか。

 加えて興味を持ったのが、オスマン帝国最盛期の皇帝スレイマン1世の治世の頃(16世紀中葉)、皇帝の寵愛を楯にはかりごとを駆使して奴隷上がりの側女から皇后となった女性が後に後宮を支配してしまったというのも驚きの歴史である。
 当時のヨーロッパを中心とした世界では帝国同士の結びつきを強めるため、政略的に婚姻を進めるのが常であったが、奴隷上がりの側女が第1夫人と後継者である息子を宮殿から追い落とし、自ら権勢を振るったのである。
 なんという歴史であろう。

 二つ目は、日本生まれのフランスの画家である藤田嗣治の生涯を調べることである。

藤田嗣治 本

 日本人としては、今でもフランスで最も有名な画家であるのに、日本での評価が伴っていない。当時の画壇の重鎮であり師であった黒田清輝との画風の相違もあった。
 又、第二次世界大戦中に日本軍の要請で戦争画を画き、そのため敗戦後は戦争責任で追求され、作品自体も米国に接収され、やっと日本に返還されたが国内事情のみならず周辺国との関係で公開もされず、日本では藤田の芸術性を論じられることも少なく、藤田理解には遠く及ばない状況である。

 藤田の父は陸軍軍医総監であった森鴎外の後任であり、母は小栗上野介(戊辰戦争で非業の最期を遂げた幕臣)の縁戚であったり、兄は日露戦争で活躍した陸軍大将児玉源太郎の娘と結婚しており、その先祖を見ても藤田家は名門の家柄であったという。

 出自はさておき、パリでの修業時代は絵も売れず飢えを伴う生活苦での日々であったが、当時のパリには芸術家の卵が各国から集まり、交友関係はモディリアニ、キスリング、ユトリロなど数多くあり、日本から留学していた島崎藤村などとも交流があったという。又、藤田がやっと個展を開くことができるようになった時、個展にピカソが訪れて藤田の絵に数時間じっと見入ったということもあったらしい。そのことは、藤田に自信を与えたという。

 そのような事もあり、次第にパリでの人気を博すようになり「巴里の寵児」とまで言われるようになったが、第二次世界大戦の勃発でその運命が大きく変わっていく。数奇な人生である。

 最近興味を持った、オスマン帝国の歴史と藤田嗣治の人となりを調べることの二つが私が「この春チャレンジしたいこと」である。
 

 

 


 

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