『ドラえもん』の「リメイク」に思うこと

『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』『サザエさん』『クレヨンしんちゃん』……いずれも、「リメイク」が繰り返されている作品だ。
 オリジナルの作者は既に亡くなっているが、「有志」が「作者の遺志を継ぎ」、作品を「リメイク」し続けている。
 サザエさん、ドラえもん、ちびまる子ちゃんが連載されていた当時と現在とでは、当然だが時代背景が異なる。磯野家の家族構成など(しかも同居している)めったに見かけないだろう。ドラえもんにしても、原っぱだの学校の裏山だのは、地方の過疎地ぐらいでしか見かけない。
 特にドラえもんでは、そうした時代のギャップを現在に違和感なくフィットさせる作業(これを「アップデート」などと呼ぶらしい)をして、現代版なるもののテレビシリーズを続けている。

 こうした行為に、どれだけ意味があるのだろう。
『ドラえもん』は優れた作品だとは思う。けれど、「アップデート」なる「改変」をしてまで、『ドラえもん』である必要があるのだろうか。

 特に映画版である。『新・○○』とタイトル付けして堂々と「リメイク」であることを公言しているが、そもそもリメイク映画を毎年出し続ける意味はあるのだろうか。
 経済的利益の必要性はあるだろう。拙稿にも書いたが、『ドラえもん』という圧倒的ネームバリューは父母・祖父母からの信頼も篤く、「安心して観せられる」作品、なのだろう。

 ドラえもん(原作漫画)は、大人が読んでも面白い。そうした点に目をつけ、大人がグッとくる話を集めた企画本も多数出版されている(同じコンセプトで、『ジョジョ』や『スラムダンク』もある)。

『大人になったのび太たちへ』という本も、そうした企画本のひとつだ。作家、俳優、実業家など、10人ほどがドラえもんの原作漫画から一本を選び、自身のコメントともに漫画を載せている本である。
 それを読んでいて、思ったのは「人間性の深い描写」だ。

 ドラえもんが大人の鑑賞に耐えるのは、深い洞察が根底にあるからだと思う。
 藤子・F・不二夫先生の作品には「SF短編集」もいくつかあるが、こちらは大人向けコミックに書かれたものが大多数だ。もともと少年漫画だけを得意としていた作家ではない。
 また、内容が道徳的なものであったとしても、極力、説教臭さを感じさせない作りになっている(この点は藤子・F・不二夫先生もそのように心掛けていると、インタビューで語っていた記憶がある)。
 その道徳性を期待して親はドラえもんを見せたがるのかもしれない。けれど、作品を選ぶのは子どもたちだ。『進撃の巨人』も『鬼滅の刃』も、「親が見せたいと思う」作品ではなく、子どもにせがまれて一緒に観ていたらハマった(感動した)、というのが大多数ではないか。

 果たして「リメイク」には、そのような魅力はあるのだろうか。F先生のような、「説教臭くならない」絶妙な匙加減や、難解さを感じさせずに高度な科学知識をさらっと織り込んでくるような作品作りが、リメイクで実現できているのだろうか。

『ドラえもん』に影響を受け、あのような作品を作りたいと願う作家はたくさんいるのではないかと思う。彼らを「『ドラえもん』のリメイク作品」に起用するのではなく、完全オリジナル作品として世に出すことはできないのだろうか。「ドラえもんのパクリじゃん」みたいに言われてしまうのがオチなのだろうか。
「『ドラえもん』に影響を受けた作家が作った」と公言して出せば、問題は無いのではないか。

 むしろ、そういう作品が出てきて欲しい。拙稿でも触れたが、オリジナル作者が不在でその作品を作った場合、それは「二次創作」であって、オリジナルではない。もっとオリジナル作品にチャンスを与えても良いような気がする。
 音楽の世界では、「○○に影響を受けた~」「○○直系のサウンド!」みたいな表現があり、影響元を明示することは多くある。
『ドラえもん』に影響を受けた、オリジナルのSF作品(漫画でも小説でもよい)を打ち出すことは出来ないのだろうか?
 辻村深月氏は、もしかしたらそうなのかもしれないけど、表現形式は「小説」で、そこはやはり違う。

 藤子F作品を読んでいると、そこには星新一や小松左京らのSF小説の影響を、強く感じる。
 同じように、藤子F先生の影響を強く感じる漫画が、もっと出てくることを期待する。
 いつまでも、F先生の「遺産」に集るわけにはいかない。F先生の「遺志」を汲んだ編集者(作者、作家ではない)と出版社に、奮起してもらいたいと願う。

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