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執着を捨てて自分自身を生きる

執着について

 特定の物事にとらわれ、固執することを執着という。

 人は時に執着心を抱く。執着するのはなぜか?能動的に執着することはあまりない。大抵は、気がつくと執着している。

 思うに、執着というのは果たされない欲求の成れの果ての姿だ。

 執着が生まれてくる時、その前段階では、果たされない欲求があるように思う。

「あの人に愛されたい。」「もっと仲良くなりたい。」「気持ちを分かち合いたい。」「一緒にいたい。」「大事にしたい。」「わかって欲しい。」「生活を豊かにしたい。」「傷つきたくない。」‥

 欲求がすべて果たされるなら、きっと執着は生まれない。そして原点が自分の欲求であるからこそ、執着は他人にとってはしばしばキモチワルイものになる。

執着とこだわり

 ところで、欲求の対象が技術や知識だったら、良い効果や良い印象を生むこともある。多くの職人やプロフェッショナルはその技術や知識を極めるまでの間、執着を持ち続けることが多いが、それはある種大事な「こだわり」として、称賛されることすらある。

この違いは何か?

 おそらく、技術や知識はある程度身についたり極まったりすると欲求が解消されて執着が薄まるが、人への欲求はなかなか解消されにくく、執着は薄まるどころか濃くなりやすいという点が最大の違いだろう。

執着の増長

 話を戻そう。果たされない欲求が執着に変わるということは、欲求が多かったり、あるいは難易度の高い欲求を持ちやすい人では執着が生まれやすいということだ。

 しかも対象が人になると、執着がさらに相手との距離を引き離すため、欲求はさらに叶い難くなり、より強い欲求がより強い執着を生み出すという悪循環にはまる。ストーカーやある種のDVなどがその悪循環にはまった例といえる。

かくも執着はおそろしい。

執着を捨てるには

 では執着を捨てるにはどうしたら良いだろう?と考えてみると、理屈からすると原点となる欲求をなんとかしなくてはいけなさそうだ。

 もし今、自らの執着に悩んでいるなら、どのような欲求がその根本にあるのか振り返ってみよう。

「自分の内にある、果たされない欲求は何か?」

 例えばあなたが妻に執着してしまう夫だったり、彼氏に執着してしまう彼女であるならば、おそらく根っこには「相手から愛されたい」「相手に理解されたい」というような欲求があり、なおかつなんらかの理由でその欲求が果たされないという状況があるはずだ。

 なお、幸運にも欲求が果たされる場合は執着は生まれないはずだが、しかし欲求は時に罪深く、果たされた瞬間に、より高度な欲求を生み出すことがある。

 先の例で言えば、執着しがちな人は夫になる時、あるいは彼女になる時には、「この人と結婚したい」「この人と付き合いたい」という欲求は叶えらているはずだ。しかし次々に欲求が高度になっていくと当然、遅かれ早かれ果たされない欲求に到達し、執着を生む。執着に悩む人の中にはこのようなパターンにはまっている人もいるだろう。

‥少し話が逸れた。

 とにかく、果たされない欲求とどう向き合うかが問題だ。

 それを知るためにはさらに考察を深め、欲求がどこからやって来るのかを考えてみる必要がありそうだが、ちなみにこうして考えを進めることをやめられない自分はすでに、このテーマに執着しているといえる。

 根っこにあるのは、「執着を捨てて幸せになりたい」という欲求だ。この記事の先で無事にその願望が果たされれば、執着も消えてくれるだろうと思う。笑

‥また話が逸れてしまった。

欲求とどう向き合うか

 欲求がどこから来るのか、結論から言うと正直よく分からない。と言うより、例えば欲についての考察が深い仏教では、「人が本来持っているもの」とされ、仏教ではこれを捨て去るために修行する。しかし、その修行に成功した人がこの世に果たしてどの程度いるだろう?

 つまり何が言いたいかと言うと、おそらく常人には欲求を捨てたり持たなくすることは非常に困難だ。

 常人にできるのは、せいぜい欲求の増大を抑えることくらいだと思う。これだって十分難しい。

 欲求が叶えられるたびに大きくなるという性質そのものは、人の成長に貢献している部分もあるだろう。だから全部ダメということはない。線引きとしては、「自分の努力によって果たすことが出来そうかどうか」というのが妥当かなと思う。

 つまり、果たすことが到底できそうにない欲求や他人を巻き込むような欲求を持ち続けることは、執着がらみの悩みに繋がるといえる。

 人間関係で執着に悩む場合、おそらくは根底にある欲求に関して、心のどこかで「その願望は叶えられる」という思いがあるのではないか。先の例では「相手に理解されたい」「相手に愛されたい」という欲求に対して、心のどこかで「叶えられるはず」という慢心があるのではないだろうか?

現実をみよう

 叶えられないから、今苦しんでいる。つまり、ある程度のところで、「その欲求は果たされない」という現実を受け止める必要がありそうだ。

 しかし現実は時に厳しく受け入れがたい。

 そして受け入れがたい現実から目を逸らして、願望や慢心にすがった時に執着が生まれる。

 結局のところすでに執着で悩んでいる場合、解決はものすごく難しい。現実を見て、願望を諦め、抑えがたい欲求を手放さなくてはいけないのだから。

 うまく解決できない場合は、解決したいという気持ちでさえ、執着を生む可能性がある。

 なんて恐ろしい悩みの連鎖。

 けれど、希望はある。今すでに叶っている欲求に目を向けてみよう。

 自分は本当に何も持っていないだろうか?

 本当に相手に対する全ての欲求が果たされなかっただろうか?

 最初から声をかけることすら拒否されただろうか?

きっとそこにはすでに果たされた欲求が見つかるはずだ。そのことに満足することが解決の糸口になるかも知れない。

 執着に悩む人は得てしてチャレンジャーだ。望みを捨てずに挑戦する気持ちが強く、それは強みでもある。でも世の中には諦めるしかないものも存在する事を知る必要がある。人の心はその最たるものだ。

 人の気持ちはその人のものだ。尊重することくらいしかできない。人がその心の一部でも自分に割いてくれたのなら、それはそれだけでとても素晴らしい、価値あることなのだと思う。

 執着してしまう人がそこに満足できない気持ちもわかるが、人の心ばかりは本当にどうしようもない。

 ちなみに人に対する欲求は、コンプレックスや自信のなさから生まれやすい。自分で解消できない不安を抱えてしまい、その解消を人に求めてしまうということだ。そして相手が近しい人だった場合にはそこに「叶えられるはず」という慢心が伴いやすく、容易に執着が生まれる。

慢心を捨てよう

 「欲求が果たされるはず」という慢心は捨てよう。せいぜい、「理解してくれたら幸せ」「愛されたら夢のようだ」と妄想する程度にしよう。

 コンプレックスや自信のなさが全ての欲求の原因とは言えないが、自分磨きに専念することは、ある種の執着を捨てるための良い準備になるかも知れない。しかし、自分磨きの成果を他人からの評価に求めると、結局そこに執着が生まれてしまう。人の目を気にせずに取り組むことが重要だ。

執着はあなたの大切な時間を奪う

 執着は果たせなかった欲求の成れの果ての姿だ。つまり、執着に基づく行動を取り続けることはとても勿体無いことだ。欲求にけじめをつけ、適切なタイミングで手放すことは、欲求に振り回されて周囲に求めてばかりいた時間から自分自身を解放することに繋がる。つまり、そうしてようやく自分自身を生きることができる。

 執着に囚われている時間は、常に相手に何かを求めている時間だ。そのような状態では周囲から人は去っていってしまうだろう。一方で執着に囚われず自分自身の時を生きている人はとても魅力的に思える。せっかくの人生、できることなら執着に囚われる時間を少なくして、自分の魅力を磨くことに使いたいと思う。

まとめ

 執着は果たされない欲求の成れの果ての姿。

 現実的に果たされそうにない欲求は早めに諦めることが肝心。

 もし欲求がコンプレックスや不安から生まれているのであれば、自分磨きが解決の糸口になりそうだが、その評価を他人に求めるのは危険。

結論: 欲求のコントロールが上手い人はモテる❗️(こんな結論で良いのだろうか💦)

 







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