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レッテルを貼るのはなぜ?

なぜ、人はレッテルを貼ってしまうのか

何故人はレッテルを貼り付けて人を判断しようとするのか。
それは、人が今後の出来事を予測するためである。

例 運転手の質と在住地域

 例えば車を運転していて、前の車が荒々しい運転をしていたとする。
ナンバーに書いてある地名を見て、その地名の車に荒々しい運転をされた経験が多いと、「やっぱり○○か」と思うとする。
その後違う車が前を走るようになって、ナンバーに書いてある地名が先程の車と同じだと、「こいつも荒々しい運転をするんじゃないか?」と思ってしまうのである。

在住地域と運転の質に関係性はない

 実際には、地名が同じだからといって必ずしもそう運転する訳では無い。
運転手が荒々しい運転をするかどうかはその人の気性によるもので、どこの生まれ、どこ在住などは関係ない。
それでもそう思ってしまう事が嫌になることがある。

その動機と予測可能性

 レッテルを貼り付けるという行為の動機はどこから来るものなのか。
これには、未来の予測可能性が関係している。
人は、予測できないものに対して恐怖を抱く。
というのも、人は行動の決定に際して多少の時間を要する。
これは緊急時も同じである。
しかしながら、周囲の状況は待ってくれない。
命に関わるような切迫した事態に見舞われた時には即断即決できなければならないのである。
とは言っても、考えなければ答えが出せないのに、どうやって即断しようというのか。
 答えは心構えをすること。
つまり最悪の事態に対して備えることである。
 では、その備えはどれだけのものに対してしなければならないのか。
この人は、どれくらい危険なのか。
あの場所にいて滑落等の事故に遭う確率はどれくらいなのか。
周囲の車が急な加減速や幅寄せ、ふらつきなどを行う可能性は?
などなど、考えうる限りの危険性といえば無数にあるわけである。
ただし、その全てについて最悪の事態を考えていたらキリがないし、それこそ思考が追いつかない。
 ここで評価という概念が出てくる。
つまり、この人は今まで暴言の1つも吐かなかったので危険性は非常に薄い、とか、あの場所は踏み固められていないし急斜面なのでちょっとした事でも滑落する確率が高い、とかである。
ただし、それはその人物や場所に対してある程度経験や知識がある上でのことである。

経験の無い出来事に対する評価と予測

最初の例えを持ってくるとしよう。
前を走っているのは自分の全く知らない運転手の車である。
実際に運転の質を予測するのに必要なのは運転手の気性、性格である。
しかし自分はその運転手と交流経験が無いのだから性格を知る由もないのである。
 ここからは間接的な要素になる。
つまり直接関連は無いものということだ。
例えば運転手の服装。
ラフであれば荒々しい運転をするかもしれない。
でも実際には前の車の運転手の服装などほとんど見えないと言っていい。
では、車種とは言わないまでも、高級車かそうでないのか。
人によっては経験から高級車の運転手は荒々しい運転をすることが多いと感じるかもしれない。
そしてナンバープレートに書かれてある地名もそうである。
 つまり、経験から危険性の高かった事象に対して直接的な関係の有無に関わらず共通点をリストアップし、それに該当すれば危険性の高いものとして扱うのである。

間接的な評価とレッテル貼り

 上述したのは、間接的な要素からの評価である。
評価を行う当人にしてみれば、多少精度が悪くても危険性の高い事象に対して予測と備えが出来れば問題ないのだ。
 では、レッテル貼りとして問題になるのはどういった行為なのだろうか。
 それは、その評価に対して確証を得る前に、評価した対象へ向けて攻撃した場合である。
実際には、その人は誰かを攻撃しようというような人物ではないのに、自分の中で危険性が高いと評価した(思い込んだ)というだけで、その人に対して暴言や暴力などを行ったりその人は危険性が高いと周囲に流布したりという行為に及んだ場合、それはレッテル貼りによる攻撃になるのだ。

問題があるのは攻撃行為

 結局のところ、攻撃という行為が悪いのであり、評価をする分には問題ない。
 繰り返し述べているとおり、自分に危害が及ぶ可能性を判断し、実際に事が起こった時に迅速に対処する必要があるから事前に評価を行うのだ。
それを行うな、という気はさらさらない。
 ただし、直接的な因果関係の立証が出来ないのに、あるいは実行していないのに、自分の側から相手に攻撃を行うことは問題がある。
 そもそも、それを許してしまったら最悪自分と愛している人以外全員殺すとかだって有り得るわけである。
そして社会とは意思を持った個人個人の集合であるのだから、全員がそれを行おうとしたら、混沌とした無法地帯の出来上がりである。
 極論にはなったが、つまり攻撃されないためにはこちらからも攻撃してはならないのだ。
程度はありこそすれ。
自分の存在を許容されるために、相手の存在を許容する。
寛容さとは人に甘いのではなく、とどのつまり1周回って自衛のためなのである。

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