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9/18の美学

こんばんは。こんにちは。



今日は私がひそかに大事にしている美学を文字にしてみようと思う。




対岸との距離がものすごく短いのに信号機を抱えた横断歩道とか、全然車は通ってないのになかなか青に変わらない歩行者信号とか、「これ本当にいる?」という交通スポットがよくある。

こういうものに出会った時、自らの判断により信号を守らずに渡ってしまうという人は多い。

また、そういった人は
「何でもかんでも言われたことをその通り守るんじゃなくて自分で考えて動かないと」
と言うことも少なくない。


確かにそれはそうだと思う。
小さい子どもならまだしも、大人になったら何でも指示を待つだけじゃいけないのだ。
ルールすら疑ってかからねばならないのだ。

私自身もそういう風に既存のルールに対して疑問を持ちながら自らの行動を選ぶことは多少なり、ある。


ただ、この意味なさげな信号においては私はその論の中にいない。



「たとえ意味なさげな信号であろうと守る」
これが私のひそかな美学なのである。



どうしてそんな美学を抱いているのか。

いくら私が逆張り好きだからと言って、信号を守らない大勢に背く行為がしたいわけではない。

それなら今頃でかい交差点のちゃんとした信号を守らずに死んでいる。



私がこの美学を大事にしているのは、
「心に余裕のある人間でいたい」
という憧れがあるからである。



急いでいる時とかは渡りたくなることだってそりゃもちろんある。

でも信号待ちの時間というのは軽い永遠に感じるくらい長くても、実際のところものの1〜2分だったりする。

ほんの少しの信号待ちくらいは待てるような心のゆとりは持っていたい。
たとえ焦っていてもだ。



大学4回生の頃、ゼミに所属していた。
このゼミは理系学部で言うところの研究室。
教授が少人数の学生を抱えて「研究」や「論文」というものを教えるやつ。
毎週1回はゼミ生全員で集まる日があった。


「この日は絶対来て!」と言われていたある日、私は大寝坊をかまし、盛大な遅刻をキメた。

授業なら後ろからコソッと入ったり、いっそ飛んだりすることが可能だが、ゼミではそうもいかない。バレるとかいうレベルじゃないので。


大学までは駅から路線バスで通っていた。
バス停を降りてほんの少し歩くのだが、キャンパスの目の前にはまさに無視されがちな信号機つき横断歩道があった。


到着した瞬間バスを飛び降りた大遅刻マン。
キャンパスに向かって運動会ばりのダッシュ。

しかし。

立ちはだかる赤信号。
さっき乗っていたバスだけが通り過ぎ、もう横断歩道を通り過ぎる後続車はない。
息を切らしリュックを揺らす大遅刻マン。


赤信号を見つけた途端、さっきまでのダッシュは何だったのかと言わんばかりにきっちりとそこで足を止めた。


大遅刻マンが大学最寄りのバス停に着いたとき、同じ学部の部活の後輩がたまたまバス停近くのコンビニから出てきたところだった。
後輩たちはこの大遅刻マンのダッシュを目撃していたらしい。

直後、
「○○さんバス停からめっちゃ走ってたのにちゃんと信号守っててえらかった」
などとTwitterでイジられた。

もちろんゼミはほぼ終わっていた。



といったエピソードがあるくらい、いくら急いでいても私は私の美学を貫きたいのだ。

ただ、あと少し急げば電車に間に合うだとか、人を待たせているだとか(ゼミはいいのか)、そういう時はどうしても美学に背いて、そして交通ルールに背いて、赤信号と目を合わせながら横断歩道を渡ってしまうこともまたあり。


誰かに影響を与えない限りはちょっとぐらい待てる程度の心のゆとりを持っていたいですね。

心にゆとりがあるとまわりが見れるでしょう。
そうするとね、風の温度を感じたり、葉っぱの色の変化に気づいたり、近くから漂ういい匂いを吸い込んだり、とってもいい気持ちになれますからね。






え、ほんとにこれなんの話?
下書きを一気に書いて1ヶ月そのままにしてた。


交通ルールは守りましょう。
万が一何かあった時に自分は悪くないって言おうな。




おわり。

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