歎異抄の誤訳について

最近、歎異抄が脚光を浴びているらしく、「歎異抄を開く」が増刷されベストセラーとなり映画化もされています。

それ程に現代の生き方に関心が高まっているのでしょう。
歎異抄は親鸞の言葉を弟子が纏めたものですが、その中で何と言ってもあの有名で難解な「善人名を持って往生す、まして悪人もや」と、原文は漢文ですから現代語に訳すと、「善人は当然の事として天国に迎えられる、まして悪人も当然迎えられる」と誤訳しているから、親鸞の言わんとした事が伝わらない。

これと同じ事が聖書にあり、イエス・キリストが、私は「善人より悪人を救いに来た」と言う言葉が記載されている。奇しくも仏教とキリスト教の教えに同じ様な誤解を生む言葉が残されている。これも闇の勢力による人民を惑わす手口の現れの一つでしょう。

これを説く鍵は、生まれ変わりである「輪廻転生」を理解せねば全く見当違いで、親鸞やイエス等の聖人が論破した真意が分からない。

天地創造に於いての至高神の手法は「投影」にあり、エロヒムや大天使の存在も至高神の資質の延長上に存在している。従って、人間も至高神の延長の末端であるからには、その資質に悪は存在しない。神と人間は分離された存在ではなく、一蓮托生の関係にある事を理解する必要がある。

善悪とは人間の価値観で決められた架空のものであり、至高神から観ると善悪は存在しない。善悪二元論は間違いである。つまり、至高神から尤も離れた限界に存在する人間は、全ての存在たる魂に等しく平等の体験が待っており、200~2000回に及ぶ輪廻転生に依って、その生涯に亘って過去のカルマの解消を目的とした人生経験をするのであって、まるで映画の配役の様に、ある時は加害者の役を演じ、次の生涯では被害者の役を演じる事により、様々な試練と体験と選択を通して魂を進化させ、至高神の資質を三次元の物質界で身をもって平等に体得する事が人生の目的となっている。

従って、生前に極悪人として人生を過ごした魂であっても、その本来の資質には至高神の霊質を隠し持っているのであり、生前に本人がそれに気付かなく悔恨出来なかったとしても、その魂に罪人としてレッテルを貼ることは適切ではないと言う事になる。

生まれ落ちた時は、全ての魂は至高神の霊質そのままに純真無垢で自由な魂である。
従って、全ての魂は至高神の救いを受ける価値ある存在であると言う事です。
これによって親鸞とイエス・キリストの言わんとした真意が理解できると思う。

在る書物で読みましたが、生前に筆舌に尽くせぬ劣悪な環境に生き、やむなく悪に手を染めた、所謂、極悪人が、死後の世界に旅経ったのだが、其処では見覚えのある親類縁者がこぞって出迎え、しかも、拍手喝采で在ったので驚いた。

当然、本人としては厳しい人生ではあったものの、犯罪を犯し、他者を殺めたりしたので悔恨の念に魂は打ち震えていたので、両親に会わせる顔もない状況で、   其処で、予期せぬ歓迎を受けて動揺してしまったと記載されていました。
これなども、輪廻転生の真実を知らなければ決して理解出来るものではありません。


仏教には輪廻転生の教えが残りましたが、キリスト教ではローマ帝国時の宗教会議で、原始キリスト教(エッセネ派等)の輪廻転生に関わる記述は全て削除されています。
輪廻転生を認めると、カトリックの宣教師の権威と立場が保てなくなり、ローマ教皇の権威も失墜するから削除されたのです。何れも支配する側の論理でしてた。  従って、ダーウィンの進化論も虚偽ですし、進化途上に断続されているミッシングリンクは現に空白として存在します。

宣教師は結婚も許されず、独身で生涯を暮らす性的ストレスから、若童を付き人に侍らすようになり、歪んだ性的発散の対象とする様にもなりました。         その悪癖は現在の米国の政治家の公明正大たる心理の捌け口としての歪んだ幼児趣味につながり、前回の米国大統領選挙の裏側で多くの拉致されていた幼児が救出されているが、この情報は絶対にマスコミでは報道されないと言う不思議さであります。


*此処でおまけとしての情報ですが、親鸞と義経が従兄弟同士であった事を知っているでしょうか?つまり、親鸞も源氏の流れを汲む家系で、平安末期に平家に弾圧された太政大臣クラスの子息であったので、難を逃れる為に出家させられたのです。

義経も幼少期に鞍馬寺に預けられ、仏門で修行させられています。長兄の頼朝は伊豆の豪族であった北条氏に預けられましたが、両者の父は河内源氏の武将源為義でした。
因みに鞍馬(クラマ)とは、地球創生期よりの最高統率者であり、チベットの地底に存在するシャンバラに君臨するサナート・クマラから来た名前です。
熊野神社(クマノ)の名前も同じ語源です。

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